人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『人間の条件』と全体主義の関係について|第133回人間塾in関西 ハンナ・アレント『人間の条件』に参加して2

2023/02/09
 
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どうもおはようございます。高橋聡です。最近もまだまだ寒い日が続きます。体調にはくれぐれも気をつけましょう。

さて前回の記事に引き続き、人間塾の課題本『人間の条件』と人間塾のお題2の関連で今日は語っていこうと思います。その後、『人間の条件』全体の書評というか、感想も書いていきたいな、と思っております。

  • お題2 アレントは全体主義はなぜ、起こったのかと説明していますか?それに対してどうしたらよいかと述べていますか? それに対してご自身はどのように思われますか?

今回の課題本『人間の条件』には「全体主義」ということばは直接出てこなかったと思います。ただ当然、特に政治が活動に含まれると考えると、どのような過程で全体主義的な政治が生まれるか、ということは少し触れています。そこに触れつつ、アレントの言いたかったであろうこと、そしてぼく自身の感想も少し書いていきます。

暴力による支配

まず、暴力による支配は権力を破壊し、無能力を生み出すというようなことが指摘されています。ナチスドイツにしろ、ソ連のスターリン政治にしろ、中国共産党の毛沢東時代の文化大革命にしろ、全体主義は国家を暴力で支配することだ、とも言えるでしょう。ナチス、ソ連、中国の例を見ると、明らかに暴力支配をする権力者側は有能な人物がいたら、支配者は取って代わられるのを恐れてその人物を無力化、もしくは殺害し、結果的にイエスマンばかりの無能力な人ばかりが政権中枢に残ります。その点で、アレントの指摘はおそらく正しいでしょう。

暴民支配とは、粗暴な民が支配する衆愚政治の行き着いた果てです。体力はある国家は作れる反面、権力は育ちづらい環境にあるといえるでしょう。衆愚政治の後にだいたい暴力支配などが来ることは多いですから、これもまた全体主義と関係がある概念には違いありません。

自由と主権の問題

西洋では伝統的に自由と主権が切り離せないものとして語られてきました。人が自由な立場なら、主権があるといえるでしょう。対照的に、人が不自由な奴隷状態に置かれているなら、主権は全くなく、決められることはないでしょう。全体主義は支配者が主権を握っている状態です。言い換えれば、支配者とその周りだけが自由を享受できる環境が全体主義だ、ともいえるでしょう。
また全体主義では、それぞれ国民は不自由を感じさせすぎない隷属状態に置くように政治を行います。どのみち、全体主義下では主権は国民にないことに代わりはありません。
だからこそ主権があるうちに、全体主義の支配者となる人たちに主権を渡さないように常に国民は政治を監視できるのがベストでしょう。

アレントの全体主義への解決策

アレントの文章を読んでいると、全体主義に対抗する鍵は活動にある、と読めます。結局国民が活動と言論によって政治について公の場で語ることが多くなれば、全体主義を見極める状況が生まれる可能性もあるでしょう。活動と言論を行う場所を増やして、国民が政治にもっと関心をもって共に政治を行う協治の国、というのがアレントの理想に近いのかな、と勝手に思っています。

アレントの解決策を受けて私が感じること

アレントの言っていることはやはりできるのがよいな、とぼくは思います。現実的にそのような場所はカフェなのか、井戸端会議なのかはわかりませんが、対話ができる場こそ必要だとぼくは思うからです。議論を戦わせる討論やディスカッションではなく、意見交換からはじめてどの点に違う立場の相手の思うところがあるかを理解する対話、ダイアログの次元での話がまず必要でしょう。
というわけで、今回のブログ記事はここまでです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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