客観的なものの中を生きるな–ニーチェ『愉しい学問』<序曲>への注釈8
2018/06/16

おはようございます。哲学エバンジェリスト高橋 聡です。あなたは主観と客観、どっちが大事だと思いますか。ぼくは昔、客観を大事にしてきました。ところが今は主観的に考えることがとても大事なことで、主観的に考えることが主体的に動くことの第一歩だと感じています。ニーチェは客観的な法則というものにとても強く反対しています。それでは早速見ていきましょう。
48番 法則に反対

今日からは、細い紐で結んで、
私の首の周りに、からくり時計がぶら下がる。
今日からは、星は運行を停止し、
太陽も、鶏の鳴き声も、影も、動くのを止める。
かつて時間を告げてくれたものが、今や、
おし黙って、耳も目もふさがれてしまった。−−
自然という自然が、私に沈黙する。
法則に従って時計がチクタク動くところでは。
ニーチェ『愉しい学問』講談社学術文庫版・森一郎訳
すべてが静止する

自然が止まる。時間の流れが静止する。時計の針が刻一刻と刻んでいる場所では。
これはどういうことだろう?結局人間は法則に従って1秒1秒を客観的に同質な時間の長さと区切って考えてしまうことで、その1秒の小さな変化ということにも気づけず、またより大きな時間の変化にも気づけなくなってしまうということだ。
万物は変化する
万物は変化する。種は芽となり、芽が幹となり、幹は枝を生やし、枝からは実が生じる。だが1秒という区切りを身につけてしまうことで、これらの変化に気づくことができず、すべてが沈黙したように見えてしまうのだ。時間は法則の通り動くのではない
人は法則というものを意識すると、それが全体的に普遍的なものだと錯覚してしまう。でもよく考えてみてほしい。例えば同じ一時間でも、あなたがとても楽しいと感じる一時間とはすぐにさってしまう。逆に辛いと思う一時間ほど長いものはない。あなた自身の中でも同じ一時間でも長さが違う。年齢によっても感じ方が変わってくる。だから、あなたと他の人の一時間が同じものだと言い切る道理は一つもないのだ。このように、主観が関わるところでは法則による説明だけでは納得できないことがあるのだ。なぜなら法則には客観的に捉えた運動を客観家されたデータに変換するだけであって、そこに主観の入りいる余地がないのだから。踏み込んで考えてみる

上記で説明したことをニーチェは詩の形で表現したのだが、結局何が言いたいのだろう?客観的な法則というものを意識しすぎて行動すると、客観性に埋没して自分の主体的な動きができなくなってしまうのだ。これを現代の日本社会に置き換えると、人は労働する時間を提供しないと生活していけないという法則があって、それに当たり前に乗っかってしまうとそのような法則の通りにしかならず、法則に流された人生を送ることになってしまうということである。
でもぼくらがもっと大事にすべきことがあるのだ。主観的な考えや感覚を大事にして、主体的に動くことだ。例えば好きだという感覚を大事にし、それを仕事にできるように主体的に行動してみる。嫌いなことだらけの仕事をやめて、個人で生きるすべを探しみる。そんな大きいことでなくても、客観的な時間に埋没せずに、法則に逆らってでも主体的に生きてみよう。これがニーチェの言いたいことだ。
客観的な法則など主体的に生きる上で何の役にも立たないのだと自覚し、行動することが大事なのだ。ぼくはこの考えにすごく共感する。あなたはどうだろうか?思ったところなどあれば気軽にコメントなどしてほしい。