デカルトの生涯|デカルト『方法序説』(岩波文庫、谷川多佳子訳)解説2
2.デカルトの生涯
あなたはデカルトの肖像画を見たことはあるでしょうか。
上の二つに着目しましょう。上の画像が若いころのデカルトの絵だと言われていますが、今は本人をさしたものではないと言われています。下の画像がフランス・ハルスというオランダの画家が描いた肖像画です。
次の画像はデカルトの通ったラ・フレーシュ学院です。今はフランスの陸軍幼年学校として利用されているようです。
フランスの地図を用意して位置関係を確認しましょう。トゥールとポワティエという二つの都市の間にデカルトが生まれたラ・エという都市があります。
デカルトは1596年にフランスのラ・エで生まれて、1650年にスウェーデンのストックホルムで亡くなりました。デカルトが生まれたトゥレーヌ州ラ・エというのは、現在はデカルトにちなんで「デカルト」と改名されています。当時はフランスの庭園と謳われた地方にある田舎町です。
このラ・エはトゥールとポワティエという二つの都市のちょうど間に位置する街です。フランスという国ができる前に、フランク王国という国がありました。メロヴィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルが、当時猛烈な勢いで北アフリカからアンダルシア(スペイン)を続々とキリスト教勢力を駆逐して、ピレネー山脈を超えて北上してきたのが迎え撃ったのが、トゥール・ポワティエの間だと言われております。この戦いは732年にあり、その850年後くらいにデカルトは生まれたのです。
父であるジョアシァン・デカルトはパリで弁護士を務めた後、レンヌを任地とする司法官でした。
デカルトは1607年、ラ・フレーシュ学院に入学します。日本の歴史で言うと、1607年は徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を建てた1603年から4年後で、朝鮮通信使が江戸に派遣されて江戸幕府と李氏朝鮮の国交が樹立した年でもあります。ラ・フレーシュ学園はデカルトが入学する3年前に作られたイエズス会の先進的な教育がなされるために作られた学校です。イエズス会は当時、対抗宗教改革(ルターに始まるカトリック内の教会運動)を主導したグループで、こと教育にも熱心な組織でした。日本に宣教しにきたフランシスコ・ザビエルはイエズス会の創始者のひとりで、ザビエルの盟友イグナティウス・ロヨラが1534年にイエズス会を作りました。
ラ・フレーシュ学院はそのイエズス会の特徴をしっかりと引き継ぎ、教育制度を確立し、教師にも優れた人々を招き入れて、新しい科学や技術も積極的に取り入れました。
悪魔が作ったものとして当時忌避されていた望遠鏡を用いてガリレオが木星の衛星を発見した時、ラ・フレーシュ学院ではお祝いをするほどに、前向きに科学や技術を取り入れる姿勢があったのです。
デカルトはこの学院で8年間をすごし、その直後の1年間はポワティエ大学で法学と医学を学びます。
デカルトは第1部の最後の方で「書物による学問」を捨て去る宣言をしています。そして旅に出て世界という書物を読み解く学問を追い求めたのでした。旅のあと、デカルトは軍隊に入りました。最初は1618年にプロテスタントのナッサウ伯マウリッツの軍隊に入ったと言われております。その1年後にドイツでカトリックのバイエルン公マクシミリアンの軍隊に入隊しました。当時はカトリックとプロテスタントのそれぞれの陣営が戦いあう三十年戦争の真っ只中で、当然どちらの軍隊も三十年戦争に参加していました。日本で言うと1618年は大坂夏の陣の3年後です。徳川幕府が豊臣勢力を大方駆逐して太平の世を作っていった時期ですね。
どちらの軍隊も当時の最先端の軍備を誇っていて、当然最先端の科学や技術を応用した武器・兵器などがあったはずです。そうした最新の技術に精通した技師や整備士がいると考えることができるでしょう。科学者がその任に当たっていたかもしれません。デカルトはそうした人たちとの交流を求めて軍隊に入った可能性があると私は思います。
事実、その軍隊への従事生活で移動している中で、科学者イサク・ベークマンと知り合ったと言います。このベークマンとの出会いがデカルトに大きな影響を与えたのです。ベークマンと共同研究をすることで、数学を武器に自然を解明するという構想をえました。ベークマンと流体の圧力の実験や落下の法則などを研究したといい、その過程で数学を用いて自然を解明する着想を得ました。
ドイツでマクシミリアンの軍隊に入ってノイブルクという場所で冬営をしました。冬の間に炉部屋で思索をします。この時に大きなインスピレーションを得て、学問の普遍的な構想を見出します。『方法序説』の第2章と第3章にその時の思索の一端が書かれています。
そのあとに軍隊を離れ、諸国を旅しました。諸国を旅した後にパリに戻ったデカルトは、数学や光学などを研究したようです。このパリ時代にメルセンヌやミドルジュと出会います。メルセンヌはミニモ会の聖職者ですが、数学や音響学を発展させた人物です。ミドルジュは数学者で、光学の研究も行った人物です。彼らとパリの私設アカデミーを設けて、科学者や数学者、哲学者が情報を交換する場にデカルトは参加していました。
1628年以降、研究と思索のためにオランダに移住します。そして生涯をほぼオランダで過ごしてフランスにはほとんど帰らなかったのです。オランダでも同じ場所に長い期間住むことはしませんでした。
デカルトは『世界論』という光や宇宙、人間についての科学研究をまとめた著作を出版しようと当初考えていました。しかし1633年にガリレオが異端審問のかどで有罪判決を受けました。ガリレオは市政に出ることはできずに、幽閉され続けて最後に亡くなります。この事件はヨーロッパ全土の哲学者や科学者に衝撃を与えました。デカルトも身の安全を図って『世界論』の出版を取りやめることにしました。その代わりに1637年に出版されたのがフランス語で書かれた『方法序説』です。
1641年に『省察』、1644年に『哲学原理』、1649年に『情念論』を刊行します。生前に刊行した著作はこの4つだけです。『省察』は形而上学の古典で、ラテン語で書かれています。『哲学原理』はデカルト自身の哲学を教科書風に述べたラテン語で書かれた著作です。最後の著作『情念論』は情念の問題を冷静に扱い、受け身としての情念を分析します。精神・魂の受動としての情念という視点は、のちに『幸福論』を書いたアランに多大な影響を与えます。
その『情念論』を出版した後、デカルトはスウェーデンの女王クリスティナにストックホルムに招聘されて、スウェーデンに向かいます。朝が苦手だったデカルトはストックホルムでクリスティナに朝五時から講義を行うことで体力を削って、そこに北国の寒さで病に倒れてデカルトは1650年に亡くなります。クリスティナはデカルトの死後少ししてカトリックに改宗する宣言をして周りを大変驚かせるのですが、女王のこの改宗に最も貢献したのがデカルトであることは間違いありません。
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