人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

現象学の基礎を知るための8つのポイント

 
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こんばんは、哲学エバンジェリスト高橋 聡です。今日はアルフレッド・シュッツの『現象学的社会学』というアンソロジーの第一章の要約とそこからの考察を見ていきたいと思います。現象学の基礎的なところを押さえているので、シュッツの社会学だけじゃなくて、フッサールの現象学について学びたい方も読んでいただくと価値のある内容となっています。では早速はじめましょう。

現象学への関心

要約

シュッツはフッサールの現象学についてこう言う。現象学は”断片的な性格”を持っている。この点は難しい。だが哲学の基礎そして科学的思考の基礎を出発点に戻って探究しようとするため、そうした難しさが現れるのだ。

現象学的な論理の力と思考習慣の根本的な変更によって、「厳密学」である「第一哲学」を開くことができる。数学的言語を用いた科学(厳密科学)では、われわれの経験的世界は記述できない。現象学は、われわれが暗黙の前提とするものさしで測ることができると考えられている世界に懐疑を投げかけ、そしてその懐疑を徹底することによってのみ、すべての科学の「正確さ」を保証できるのである。

噛み砕いて言おう。フッサールの現象学は、われわれの思考習慣、世界が素朴に存在するという考えに根本的な変更を促す。客観的な世界が存在し、その世界を分析しようとするのが科学であると考えられているが、そうではないというのだ。

考察

現象学へ関心を持ち、フッサールの著作を読みはじめて一番最初に突き当たるのが、その独特な用語と断片的と思われる記述です。用語については学ぶしかありませんが、断片的な性格というのは、哲学の基礎と科学的思考の基礎へとなんども立ち直り、フッサールの考察がなされるから断片的な記述になってしまう、とシュッツは言っているのです。

厳密学は数学的言語、つまり数式で表される学問でなされるのではなく、日常言語で記述されるべきであるとフッサールは言います。なぜかといえば、われわれの経験とは日常言語でなされ、構成されているからです。そして客観的世界が存在し、それを測定できるという考え方をフッサールは保留します。

ここでこういう議論がされているのは奇妙に思われる方もいるのではないでしょうか。フッサールは数学と物理学によってすべての世界現象が記述できる可能性はないと言ったのです。その点ではフッサールの時代のあとに現れるウィトゲンシュタインの主張とも似ています。ただしフッサールのこの指摘は、科学万能主義に対する批判ではありません。主観と客観の一致問題という哲学上の難問が横たわっていて、フッサールはこの問題に立ち向かうことになったのです。

詳しくは次の項目から説明が入ります。

現象学と社会科学

要約

”あらゆる社会科学は思考と行為の間主観性を自明なことと考えている”。この自明なことと考えていることの根本的な見直しをするのが現象学だ。

どのようにして人は互いに理解できるのか。コミュニケーションはどのようにして可能か。こうした問いが現象学によって可能になり、その結果社会科学の基礎をも作るのである。

考察

間主観性という言葉がここで出てきました。どういう意味でしょうか。

間主観性とは、各人の主観の間の妥当性という意味です。すべての人は自分の主観を持っています。そしてその主観は人によって違いはするけれども、共通点となるような考えの妥当な範囲というものがあります。たとえば、言語的コミュニケーションをとるといっても、それぞれ主観で感じることは違います。ところが言語によって意思の相互疎通をはかろうとする行為が言語的コミュニケーションであるということに意義を唱える人はまずいません。その点でこのことは妥当性を持っていると言えます。

昔は間主観性の妥当な内容を「客観的真理」と呼びました。ところが、客観的真理が存在するのではなく、ただ人々が考える妥当な共通の意味内容がそこにあるだけなのです。こうして間主観性は客観的真理をより正確な概念に置き換えるために使われる言葉なのです。

意識

要約

人間の意識が第一の出発すべき事実である。人間にとって共通の意識の事実とは、「私は考える」「私は感じる」である。

だからこそ現象学では、外的な対象に注意を向けるのではなく、われわれ自身の経験に注意を向ける必要性を強調する。

志向性という概念をフッサールは重視する。志向性とはある対象「についての意識」であるという基本的性格のことだ。この志向性についての記述は二種類ある。自然的態度と現象学的還元の領域の二つにおいてである。

われわれは精神の徹底的な努力によって、自然的態度から現象学的還元の領域へと移行することができる。外的世界がただ存在していることという考え方からくる自然的態度を保留にすることで移行が可能となる。

この際、自然的見方とそこから進んでなされた分析や考察など自然科学のすべての命題をも保留する必要がある。この判断保留(エポケー)ののちに残るものは、われわれの知覚と反省、つまりわれわれの経験の流れ全体である。

わかりやすく言うと、こういうこと。フッサールは言う。「私は考える」という意識から出発せよ。この意識の経験にまず注意を払うのだ。志向性には自然的態度と超越論的還元の二つの領域があり、エポケーによって自然的態度を脱して現象学的還元の領域へと移行できる。この際の自然的態度とは、自然科学のすべての命題をも含む。このエポケーのあとに残るのが、われわれの経験の流れ全体である。

考察

まずは我々自身の経験に注意を向ける。現象学はこれを最も大事とするのです。自然的態度とは「外的対象」についての意識、超越論的還元とは「内的経験」についての意識のこと。エポケーとは判断を保留にすること。

自然的態度とは外的対象があって、そこに注意を向けている態度のことだから、一見事実を見ているようにみえます。ところがここでは事実と事実に対する解釈は峻別されていません。逆に事実と解釈は混在してしまっている。ところが外的対象に対する意識を一旦保留にしてみると、そこにあるのはただ自分自身の「経験の流れ全体」だけなのです。そしてこれはすべて解釈だと言ってもいい。この経験の流れが解釈であると区別できれば、事実は外的世界のみとなるのです。

経験−意識の流れ

要約

経験とは意識の流れである。ところがこの流れにいるときは、経験は存在しない。「反省」という特殊な態度を取ったときのみ、経験は観察可能なものとなる。

考察

経験は必ず過去の出来事だということをここでは述べています。「反省」という態度をとったとき、初めて経験は見えてきます。では見えてくる経験の内容とはどういうものなのかが次の項目で説明されます。

有意味な経験

要約

反省によって区別された経験は、有意味な経験である。記憶に再現できる経験と「合理化可能性」の限界とは一致する。つまり、覚えていることができる有意味な経験とは、言葉にして説明できるものでなければならないということだ。

考察

有意味な経験ということは、言葉で説明できること。あたり前のことをなぜ指摘しているのでしょう。このことは経験世界の記述が日常言語で行う必要があるという上で指摘したことと密接に関係します。経験世界の記述は、すぐに数学的言語で記述できないのです。まずは日常言語として経験に落としこまれて初めて、経験世界の記述ができる。つまり、経験世界→日常言語→数学的言語(数式)という順に変換されると考えていいのです。日常言語が先に来たら、数学的言語の確かさは失われるのではないかという指摘も出るでしょう。ところがそうではありません。物理学によって、数学的言語の記述の正しさが担保されたとする。すると日常言語の記述の正しさも確定され、そして経験世界が確固たるものとなる。数学的言語(数式)→日常言語→経験世界と正しさを担保することができるわけです。

実はこのことが上の”現象学の関心”で見た正確さを保証することと関わってくるのです。

意味付与行動

要約

経験には二種類ある。「根源的な受動性」を特徴とする経験と「根源的な能動性」を特徴とする経験の二つだ。前者は受け身でいるときに生じる意識や感情。対して後者は「根源的な受動性」をうけて取る態度とそのあとの行動のことだ。そして行動とは、自発的能動性にとって意味を付与する意識経験のことである。

行動とは、すべての志向性が変わったとしても、自分から積極的に態度を決定することによって他の経験とは区別される経験のことだ。

考察

行動とは、経験の中で最もインパクトに残る経験です。なぜかといえば、行動とは意味を付与する経験だからです。意味を与えるということは、それだけ記憶に残るということです。

生への注意−覚醒

要約

覚醒とは、働きかけを行っている自己が生に対する十分な関心をもっていることだ。覚醒はわれわれの認識を正確に解釈するための出発点である。覚醒状態は世界のある部分に意味があると決定し、意味があるということは、思考の流れと内容を決定する。

考察

結論からいえば、覚醒状態が思考の流れと内容を決定するのです。思考の流れとは経験のことだから、覚醒状態は経験とその内容まで決定してしまうのです。世界のどの部分に意味があると決めるのは自分です。そして意味があると決めたことが思考と経験にリンクするわけです。

生に対する十分な関心こそ、思考と経験を決める第一歩なのだとつかんでおきましょう。ハイデガーを読む際にも役立ちます。

行為と外的世界

要約

内的時間と外的時間の交差点こそ、生き生きとした現在である。内的行いは取り消し可能だが、外的働きかけは取り消し不可能である。働きかけは外的世界を変えるのが特徴。

考察

働きかけは外的世界を変えるため、取り消すことができない。そしてこの働きかけが取り消し不可能であるということから、意味が付与され重要な経験になるのです。

まとめ

以上、現象学の大事な8つの点を見てきました。それぞれのキーワードが大事なものです。一つずつおさえて理解していきましょう。

シュッツの現象学解説は秀逸なものです。ぜひあなたも興味があれば読んでみてください。

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