ウィトゲンシュタインのことばを考える

ぼくも最近、ウィトゲンシュタインを読んでいました。ウィトゲンシュタインって難しい表現するなーといつも感じるのですが、理解しやすいところから入るほうがいいのかなあ、と最近つと思います。さっそく引用してみましょう。
時代の先を走っていることだけを売りにしている人は、いつのまにか時代に追いつかれ、やがては時代に追い越されてしまう。(『反哲学的断章』)
流行など時代の最先端をいくら追い続けても、それだけではいずれ時代に追い抜かれます。人は成長し続けることができます。しかし体力は伸ばし続けることができません。結局、時代の先端を走っていても、体力の衰えやセンスの後退はいずれ来ますから、時代に取り残される日がきます。
結局、時代の先を行くだけだと限界があるということです。本当に自分にとって必要なことは何なのか、考え抜いて結論を出すことをしていないと限界を突破することなどできない、ということでしょうね。
すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできない。(『確実性の問題』§115)
デカルトはすべてを疑い、最後に自我だけは疑いえないということを論証したといわれます。でもウィトゲンシュタインのこの文章を読むと、明確にすべてを疑うことなどできないことがわかります。デカルトは自分の学んできた学問、特に数学を疑うことはしていません。
結局拠って立つところがなければ、疑うことすらできないのです。
どういうことかもう少し考えてみましょう。親から教えられたことは全部嘘かもしれないな、教師から教えられたことも友達から言われたことも全部嘘なんではないだろうか?常識など結局何の意味もないかもしれない。そういえばこの言葉で表現できることもすべて幻かもしれないし、発言自体が本当に意味がないかもしれない。
こういう考え方をしていきつくところは、懐疑ですらありません。相互の世界や言語の不可知論がそこにあるだけで、なんら発展性のある議論もできないし、そもそも自分の思ったことをいう意味すらなくなるでしょう。だからこそ、ウィトゲンシュタインのいうように、すべてを疑うことは、疑うところに行きつくことさえできないのです。
この二つのウィトゲンシュタインの文を見て思うこと。結局自分が発言をするとき、どんなことを大事にするか、立ち位置を明らかにする必要があるということです。時代に流されるだけだとやがて置いていかれます。疑うだけだと何も残りません。こういう不毛を脱するためにどうすればいいか、それを選択する必要がわれわれにはあります。
ウィトゲンシュタインはメッセージをポンポン投げかけてくれます。そのうち、拾い上げられるメッセージを徹底して考えることが必要かなとぼくは感じます。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。