恐れに負けずに目の前の出来事を行動する|第135回人間塾in関西@神戸会場『バガヴァッド・ギーター』に参加して1
人間塾への参加
みなさん、こんばんは。高橋聡です。
4月に入って早々、1日が土曜日でした。
人間塾in関西は原則、毎月第1週の土曜日に開催されています。
その第135回人間塾in関西@神戸に参加してきました。
人間塾は今回、第135回の開催だったとのことです。
今回の読書課題本はインドの聖典『バガヴァッド・ギーター』です。
人間塾のお題は塾頭のやっすんが発表してくださいます。
お題に即して考えて、グループディスカッションや発表を行います。
今回の2つのお題
前日にやっすん塾頭からWEB上でお題発表があり、事前に私が考えた部分をこのブログで共有したいと思っております。
まずはお題から。
お題①
「戦いたくない」と言うアルジュナに対しクリシュナはどう説きましたか?
それは何故でしょうか?
貴方が感じたことを含めてお話ください。
お題②
(表紙に)本書はヒンドゥー教の聖典です。
ひとは社会人たることを放棄することなく現世の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能と説いています。
どうすれば達することができるのでしょうか?
他の思想と比較してどこに特徴がありますか?
お題①への一つの答え
自分がなすべきことをなす
「戦いたくない」というのはアルジュナの感情です。
次に引用する文章が戦いたくない気持ちを端的に示しています。
彼らが私を殺しても、私は彼らを殺したくはない(第1章35節)
なぜ戦いたくないか、というと対戦する相手がほかならぬアルジュナの親戚たちだから。
ところが、クリシュナはそういった感情は自分勝手な感情だろう、と指摘します。
その戦いたくないという感情は真の知恵ではないのだ、ということです。
自分の感情に流されるということは、一種の怠惰であり、偽りの知恵だ、というメッセージを含んでいるように私には思えます。
そうではなく、自己を制御して努力しないとできないことを実践することが真の知恵や幸福につながるのだ、と言いたいんでしょう。
これを言い換えれば、自分がなすべきことを避けて努力せずひたすら流されるだけだと、輪廻の世界にとどまり、破滅が待っている。
逆に努力してひたすら真の知恵を追い求め連場、輪廻からの解脱を達成することができる。
だからこそ恐れず行動しなさい、というのがクリシュナの言いたいことの一つにあるんではでしょうか。
他の宗教の教えとの比較
聖書の”思い煩うな”
新約聖書のマタイによる福音書に、山上の垂訓と呼ばれるイエスの説教があります。
”思い煩うな”という教えがマタイ6:25-34にあるんです。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで充分である。(マタイ6:33,34)
これも未来におこることに恐れをなしてくよくよせず、今日やるべきことに集中しなさい、という教えです。
近しいところがあるように私は感じます。
カントの実践哲学
ドイツを代表する批判哲学者、イマヌエル・カントの実践哲学とも近しいところがあるように私は感じます。
カントは人間が持つ悪い方向に流れる性質を傾向性ということばで呼びます。
この傾向性とは、自分の感情に流されるようなことです。
そしてこの傾向性を避けて、実践理性を用いてただ道徳的に行為せよ、とカントは言います。
これもまた近い考え方の一種ではないでしょうか。
順縁と逆縁
人生がただ流れていくことに任せる生き方を仏教では順縁といいます。
逆に運命に打ち勝ち、川の流れをさかのぼっていくような生き方を逆縁と呼びます。
なすべきことをなすのは自分の感情などに打ち勝つ必要があるため、逆縁と近い部分があるように感じます。
お題②へのわたしの回答
たくさんあるヨガの実践
カルマ・ヨーガは行為の結果を考えず、行為に専心すること。
ジュニャーナ・ヨーガは行為の結果への執着を捨てて、充足しているため、カルマを超える状態に達する知恵を身に着けていること。
バクティ・ヨーガは最高神たるクリシュナを心の中心として、第一優先して生きること。
他にも様々なヨーガがあるが、どれかに専心して極めれば解脱できる、とクリシュナは言います。
信仰の原語
サンスクリットはインドの書き言葉です。
サンスクリットでは信仰と呼ばれる単語は4つほどあります。
すべてが違う意味です。
バクティ⇒信愛と訳される。紙に対する絶対的帰依の感情をさす。
アディムクティ⇒信解と訳される。確信をもって信じること。
シュラッダー⇒信心とか正信と訳される。宗教上の師を見習って、信じること。
プラサーダ⇒浄信と訳される。心が澄み渡っているくらい、相手のことを信じること。
ヒンドゥー教で最も重視されるのがバクティです。狂信とも間違えられる言葉で、激しさを伴います。
ところが仏教ではバクティということばで信仰を表すことはしません。ここがヒンドゥーと仏教の差異の一つだと感じます。
以上、『バガヴァッド・ギーター』についていろいろと考えてきました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。