人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

キリスト教の発展|高校倫理

2021/06/05
 
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どうもこんばんは、高橋聡です。更新に少し間が開いてしまいましたが、またブログの更新を再開していきたいと思います。大阪は例年よりだいぶはやく梅雨入りしましたが、あまり雨が降らずにいる変な梅雨ですね。雨が降らないと気分はいいのですが、水不足などにならないか少し心配です。

さて、今回はイエスが十字架の上にかけられて亡くなったあとのお話をしてまいりましょう。イエスはユダヤ人の王であると僭称した罪でローマ提督ピラトに引き渡され、処刑にかけられます。イエス自身の教えが特徴的だったことに加えて、イエスの死後、イエスが復活したことを信じる人たちがあらわれ、その人たちがキリスト教のもとになる原始キリスト教団を組織しました。

その前に、前回の記事について少し触れておきましょう。

前回の記事|ナザレのイエスの教え

前回はイエスの教えについてみてきました。現代のキリスト教とイエスの教えは完全に一致するわけではありませんが、大事な部分は引き継いでいます。
以下にリンクを貼っておきますので、読んでみてくださいね。

キリスト教の発展

イエスの死とキリスト信仰

イエスはユダヤ教の内部改革者として生涯を終えました。もちろんイエスの教えは世界宗教となるキリスト教の基礎となる考え方を含んでおり、人々から共感を得たのもまさにこの部分でした。人々の心をひきつけたイエスでしたが、伝統的なユダヤ教を守ろうとする人々に、ローマ帝国への反逆者としてとらえられました。そしてゴルゴタの丘で十字架にかけられたのです。

十字架の上で刑死したイエスでしたが、使徒たちを中心にイエスの復活を見たという人たちが現れはじめました。そうしてイエスの復活を信じる人たちが集まってつくったのが原始キリスト教団です。キリストとは救世主のことで、ギリシア語でキリスト、ヘブライ語でメシアといいます。イスラエル人やユダヤ人が待望していたメシアはイエスであると考えたのが原始キリスト教団ですから、この教団もまだユダヤ教の内部運動としての特徴をもっていました。
そうした原始キリスト教団の中で指導的地位についたのが使徒と呼ばれたペテロパウロでした。使徒とはキリストの福音を伝えるひとのことです。ペテロはユダヤ教内部での伝道、パウロはローマ帝国への伝道に携わり大きな功績を残しました。

ここで大事なことは、イエスは救世主であるという考え方が生まれ、使徒のペテロとパウロがキリスト教団を広げたという事実です。

使徒パウロとキリストの贖罪

後世、私たちには使徒パウロといえば、キリスト教の最大の伝道者として知られています。しかし、もともとパウロは名をサウロというパリサイ派の熱心なユダヤ教徒でした。キリスト教徒を迫害するためにある街に向かう途中、復活したイエスの声を聞きました。パウロは善を求めながらも、悪を行うという自分自身の罪深さに悩んでいました。キリスト教で特に大事な原罪という概念を特に考え抜いたのがパウロだといえるでしょう。

イエスの声を聞き、パウロは罪を持つ古い自分からキリストの愛により新たな自分に生まれかわることが救いであると確信しました。そうしてパウロはキリスト教徒を迫害する自分にさえキリストの愛が注がれていると感じて、キリスト教に回心をしました。

キリスト教では、アダム以来すべての人間は神の教えに背こうとする本性があると考えました。その本性こそ原罪といいます。ひとは自分の欲望を中心にして行動しようとするエゴイズムをもちますが、原罪はエゴイズムの行き着いた果てなのです。自身のよかれと思った行動ばかりを行って神に背き、他者を傷つけ、妬み、盗みを行ったり、殺人を行ったり様々な悪をなします。

パウロはイエスが人間の原罪とそこから来る罪を背負って身代わりとなって十字架の上で死ぬことによって、罪を贖った(贖罪)と考えました罪の購いとは、人間が持っている罪の代わりにすべてをイエスが引き受けたという意味です。そうしたイエス=キリストの行動によって人間は罪から解放されるのです。

パウロは律法を形式的に守ることは救いに何ら関係ないと主張し、ただみずからを犠牲にしたイエスの愛を信じることのみが救いの条であると説きました。

ちなみにキリスト教の救いとは、この世で救われることも含みますが、神が最後の日にそれぞれのひとを裁いて天国へいく者と消滅する者とに分類するという最後の審判において生き残ることが最も大きな救いです。

まとめましょう。パウロはイエスの愛が自分に注がれていることを知り、キリスト教へ回心しました。神の愛の大きさを実感した回心で、この神の愛はすべての人に平等に注がれるものでした。原罪と贖罪の考えは一応押さえておきましょう。原罪とは自己中心性から神に背く傾向のことで、贖罪とは原罪ゆえに悪を行うしかできない人類の罪をイエスが代わりに引き受け、全人類を罪から解放したことを指します。

キリスト教の教義の確立

キリスト教は初期においてローマ帝国により迫害を受けましたが、313年ミラノ勅令によりローマ帝国から公認されました。その後ローマの国教となりました。ローマ=カトリック教会を中心に、ローマ帝国にその教えを広めました。

325年のニケーア公会議では、父なる神・子なるイエス・精霊三つの位格は、その本性において一つであるという三位一体論が確立されました。イエスを神の子でありキリストと信じることに、キリスト教独自の信仰があります。

アウグスティヌス

キリスト教の正統教義を確立して、キリスト教の正統教義から異教的な教えを排斥しようと考えるローマ教会の指導者を教父といいます。その教父の代表者がアウグスティヌスです。

アウグスティヌスの主著は『告白』『神の国』です。彼によれば神によって創造されたもの(被造物)は、その本性においてすべて善です。ところが万物を創造した神に比べて、被造物は不完全で、小さな善しかもたないのです。
人間の自由意志は善を志向しようとはしますが、情欲に誘惑されて被造物にひかれ、悪へと転じます。このような人間の自由意志は、善をなす力が欠けています。しかし、神の恩寵によって善に向かう力が与えられるのだとアウグスティヌスは考えました。神こそは最高善であり、それ以外のものを低次の善だとする考え方はプラトンの善のイデアと似ている考え方だといえるでしょう。

被造物はすべて愛の対象となりますが、完全で最高善である神から、無からつくられた被造物まで、完全さの度合いに応じて愛の秩序をなしていると彼はいいます。

神の愛によって力を与えられた人間の魂は被造物の愛から人への愛、そして神への愛へとのぼりつめて、最高善である神に到達したときに、はじめて心の真の安らぎが得られるのだ、とアウグスティヌスは主張しました。さらにアウグスティヌスは、パウロの説いた仰・希望・愛こそキリスト教の最も大きな三つの徳、三元徳だと主張しています。

ここで大事なことは、教父アウグスティヌスは神の愛が人間に注がれていることに着目し、人間が神への愛を本当にもつことができるようになったときに真の安らぎがあるといったことです。

スコラ哲学の大成者・トマス=アクィナス

ヨーロッパの中世では、キリスト教の教義を論証して学問的に体系化しようとするスコラ哲学が起こりました。スコラ哲学の大成者がトマス=アクィナスです。

13世紀になって、ヨーロッパではアラビア世界を経由して古代ギリシアのアリストテレス哲学の全体が伝わりました。アリストテレスの哲学を援用したスコラ哲学は、個物の存在からその第一原因である神を推論するという経験主義の立場から信仰を論じました。

トマス=アクィナスはアリストテレス哲学を積極的に取り入れて、哲学を用いてスコラ哲学を体系化しました。自然の世界は神によって創造されたものです。だから経験から得られた自然についての知識は、神の啓示による信仰の知識と矛盾はしないはずなのです。むしろ神の啓示による信仰の知識のもとに、自然の知識をおかないといけないとトマスは考えたのです。

トマスは哲学の理性的真理と神学の信仰的真理を区別し、両者の独自性を認めつつも、神学のほうが哲学より上位に来ていると考えた点で両者を調和しようとしたのです。

大事なことは、トマス=アクィナスは経験と信仰の対立をいかに調停するかを考えて、哲学的真理を神学的真理の下におくことでこの問題を解決しようとしたことです。

以上、キリスト教の発展について書いてきました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

高橋聡記す

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