ヘーゲル 西洋哲学

ヘーゲル精神現象学序論を読む3つのポイント

どうも、哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。この記事の執筆日当日、私は東京に来ています。そこからヘーゲルの主著『精神現象学』の序論を読む際に重要なポイントをあなたにお送りします。

ヘーゲルは、哲学書にはおよそ序論など必要ないことを冒頭で述べています。それでも『精神現象学』には序論がある理由、それはヘーゲルに言わせれば誤解された哲学の誤解を解くためです。

ただし、今回は全体的な論旨をたどるのではなく、ぼくが自分の経験に照らし合わせて特に気になった点を中心にみていきます。結局哲学といえど、その人の体験や経験と照らし合わせる作業はとても大事ですから。

真理は「そうある」だけでなく、「そうあってほしい」という気持ちも含まれる

さっそくヘーゲルの言葉を引用しましょう。

この私の考えによれば、大切なことは、真理を実体としてだけではなく、主観[体]としても理解し、表現するということである。それと同時に注意すべきことは、実体性が一般者、すなわち知の直接態[そのもの]を含んでいるとともに、知にとっての有、すなわち、知にとっての直接態をも含んでいるということである。

ヘーゲル『精神現象学』上 樫山欽四郎訳 平凡社ライブラリー版(以下引用はすべて同じ)

真理は固定されているゴールのようなもので、決して動かない。ヘーゲルはこのような真理感をズバッと切り捨てます。これでは真理を実体として表現することにしかなりません。そうではなく、真理を主観として表現する必要もある、というのです。どういうことでしょうか?

真理というと、通常目に見えないものですが、それを発見することができます。真理は発見する実体としてある。もちろんこれは正しいことです。たとえば、三平方の定理が発見される以前は、三平方の定理を人類は真理としてこなかったわけです。発見したから、三平方の定理は真理として有用性を持ったわけです。

ではこの三平方の定理を主観として理解するとはどういうことでしょう。主観、つまり私が使う場合に三平方の定理が大事なのは、三平方の定理を使う側として、計算ができる有用性があることです。つまり、直角三角形の角度や長さを計算して表したいという気持ちがあってこそ、真理は真理として成り立つのです。

以上のことをまとめると、真理というのは客観的真理と主観的真理があります。客観的真理とは、「事実がそうある」という真理主観的真理とは、「事実がそうあってほしい」という気持ちから要請される真理です。客観的真理は通常哲学者が求めて来た真理のことです。対して主観的真理ばかりを重視する立場を今日の哲学ではプラグマティズムと呼びます。

簡単にいうと、ヘーゲルはどちらの真理も大事だと言ったわけです。

これは非常にまとを得た意見だと思います。客観的真理ばかりを求めると、主観が軽視され、われわれの行動に対して影響を与えない理論的なものだけができる可能性が高いんです。逆にプラグマティズムのように、主観的真理を求めるばかりだと、客観的合理性がなくても真理になってしまう可能性があるのでこれも危険です。

引用文の後半に移りましょう。実体性が一般者(知そのもの)と知にとっての有(知にとってのそのもの)の両者を含んでいる、とヘーゲルは言います。前文の「真理を実体として表現する」ことについての注意書きです。ここでは当然、真理にとっての実体性について述べています。

これを言い換えると、真理がそうあるという性質は、知そのものとともに、知にとっての存在も含んでいる、となります。真理は知そのものであるとともに、知が実体として意味があるようにこの世に存在するようになるということです。

ここでも結局知としてそうあるだけでなく、知にとってそうあるべきという真理の性質が述べられています。

ぼくらは結局、真理というものをみつけて喜びはするかもしれないけど、それを活かす方法で使わないと真理の意味がないよ、とヘーゲルは言っています。

「精神的なものだけが現実的なものである」の本当の意味

精神的なものだけが現実的なものである。精神的なものは実在つまり自体的に在るものである。つまり、自己に関わるものであり、規定されたもの、他在でありながらも自己に対する有である。そしてこのように規定されていることにおいて、すなわち、自らの自己外有において自己自身に止まるものである。言い換えれば即且対自的である。

精神的なものだけが現実的なものである。有名なフレーズですが、どういうことでしょう。

精神的なものとは、実際にあるもの、それ自体としてあるものです。精神的なものとは、自己にかかわり、自己以外の場所にありながら自己にとってもあるということです。

結局これは精神とか現実的だとかいうことばが使われているからわかりにくいということがあります。

精神的なものとは、主観的なもの、現実的なものとは、客観的なものと置き換えて読んでみましょう

主観的なものだけが客観的である。主観的なものは、実際にそこにあるものだ。主観的なものは自分自身に関わるものであり、自分自身以外の部分にありながら自分自身に対してそうあるのだ、と規定することができる。ならば、主観的なものは自己自身以外にありながら、自己自身にとどまるものと言える。自己自身以外にあるとは、客観的にそうあるということであり、自己自身にとどまるとは、主観的にそうあるということである。つまり、主観的なものとは、客観的であると同時に主観的なものなのである

主観的なものこそ、現実的に客観的であることをここでは述べています。これでもまだちょっと難しいですね。

精神的なものとは、当然私たちが思考できるものを念頭においています。思考可能なものだけが現実的である。これが第一。そして、思考可能なものはやがて現実という壁にぶつかり、実現不可能な部分を排除します。思考可能なものは、現実的に実現可能なものとなります。これが第二。現実的に実現可能なものだけが、当然現実的なわけです。これが第三。弁証法的に精神的なものが現実的なものにあわせて変容することで、現実的なものとなるわけです。そんな難しいことは言ってないですね。

たとえば、日本からブラジルまで一番はやく行く方法を考えましょう。これは行くと心に思い浮かべただけでは現実になっていないですが、すでに現実的です。では一番はやく行くにはどうすればいいか。直線距離でトンネルを掘ればいい。これは理論ではそうですが、地球の真裏にいくには当然マントルを破らないといけないので非現実的なものです。よってこれは排除されて、現実として存在する飛行機、船などに限定されるでしょう。当然飛行機が一番はやいということになるとは思います。

もちろん、人類の技術が進化して、マントルを貫くトンネルや代替技術ができれば別でしょう。もっとも、そんな技術ができるくらいならまだワープのほうが現実的だと私は思いますが、とにかく精神的なものだけが人間にとって現実的なことはわかっていただけたでしょうか。

精神の生

だが、死を避け、荒廃からきれいに身を守る生ではなく、死に耐えて死のなかに自己を支える生こそは、精神の生である。精神は、甘んじて、自ら絶対的分裂のなかにいるときにだけ、自らの真理を得ている。

精神は死を直視してはじめて生きることができる。精神は絶対的分裂、つまり弁証法的運動の最中にいる場合にのみ、真理を得ることができる

これは結構実存的に聞こえる言葉です。安住の地にいるときは真理はつかみようがない。ただ、分裂・激動・破滅のなかにいるときだけ、あなた自身の真理を得ることができると、ヘーゲルは言います。

このヘーゲルのことばを胸に、ぼくも日々自己研鑽しようと思います。

あなたもヘーゲルの本を読んで、いろんな角度から見てみてくださいね。

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