社会学・人類学 西洋哲学

監視社会への一途な道とその対抗策

どうも、哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。

この記事ではドイツの社会学者マックス・ヴェーバーとフランスの哲学者ミシェル・フーコーの奇妙な共通点について取り上げます。それは、監視社会化する国家・社会とどのように対峙すべきか真剣に議論すべきだということです。

では早速見ていきましょう。

マックス・ヴェーバーの官僚制

ヴェーバーは人類社会は合理化の過程につねに晒されていると指摘しました。そして、その合理化された社会では官僚制が発展することを指摘しています。

官僚制とは、政治や経済の専門家が権力を持ち、社会を管理し、また監視する制度のことです。ヴェーバーはその官僚制による社会の管理や監視がいずれ個人の私的領域にまで及ぶことを予想しています。

官僚制は監視のシステムが極度に発達したものということですが、ナチスドイツの例や社会主義国家の専制的政治を見ていると、確かにそうなっているのだとうなづける部分があります。でも資本主義社会でもこれが進展してくるというのが、ヴェーバーの指摘です。

たしかにインターネットなどを用いて個人が管理される社会だと、不特定多数の発信のように見せかけても、権力者はIPアドレスなどから個人を特定するのは簡単なことです。結局、ぼくらは官僚制のもとに置かれているのです。

フーコーの知と権力論

フーコーは自身の思想の源泉について議論することはほとんどありません。ヴェーバーの影響を直接受けたとは考えにくいですが、さりとてヴェーバーの官僚制の議論とフーコーの知と権力論の二つの親近性は否定できないでしょう。

フーコーの知と権力論について簡単に見ましょう。

極度に専門化された知は、ある特定の知的領域を形成します。政治経済学なる領域、精神医学なる領域、社会学なる領域、様々なものです。この知的領域は時代とともにそのボーダーを絶えず変動させ、様々なものを取り込んだり、逆に切り離したりするのです。知的領域は様々な言説によって規定され、逆に言説も知的領域によって規定されます。この知的領域は容易に権力と結びつきます。

フーコーは具体例を提示します。例えば狂気の扱いについて。中世では神がかりとされていた人が、突然非理性の異常な人として危険視されるようになります。いわゆる狂人として扱われ、監獄に収監されます。精神分析学が登場することにより、その狂人は神経症をもつ病人となりました。そして監獄に似た監視システムをもつ精神病院に入れられ、監視されることになりました。

上記の例でいうと、異常な人を正常な人に戻す試みがされます。ある種の教育や訓練を行うことで、狂人を正常な人に戻すということに目標が置かれます。この背後にあるのが人権という概念です。人権という概念は西洋の重要な概念であるわけですが、これも時代によって変動する言説なんです。この人権という言説は正常な人にしか適用されないのです。

この人権という概念が広く使われるようになったのは、フーコーによれば社会的な権力のコントロールに役立つからである。異常とされる人々を正常な人がコントロールする面で人権がないと困るからです。

官僚制と権力

このように、ヴェーバーにしろ、フーコーにしろ、知と権力はつながっていて、監視社会に社会が進むことを止めることはできない、と言います。

ではわれわれはどう対抗すべきでしょうか。

ぼくが思うには、これに対抗するのはインターネットとリアルの両方を用いて、個人の力をもっと引き出し、権力側が安易にその個人に手を出すことができないようにすることです。ある個人が捕まれば暴動が各地で起こるほどのカリスマ性がある人物を容易に捕まえることはできなくなります。

これまでは権力をもつ組織に属する人間であれ、その権力もつ組織をうまく使う人間であれ、権力側の人間が有利な社会づくりがなされてきたのでした。リアルの世界のみでは反権力として対抗するしかなかったのです。

でも、これからは反権力の時代ではなく、超権力の時代です。個人が組織の権力を超える力を持つ時代。個性を輝かせる時代がもうすぐそこにきています。

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