幸福は掴み取るものだ−ニーチェ『愉しい学問』<序曲>への注釈1
どうも、哲学エバンジェリスト高橋 聡です。今日からニーチェの『愉しい学問』(別訳『悦ばしき知識』)の<序曲>への注釈を記したいと思います。なお、引用はすべて講談社学術文庫版『愉しい学問』森一郎訳からです。面白いなと思うものの注釈を施していきます。
2番 私の幸福
求めることにうんざりして以来、
見出すことを私はおぼえた。
風に行く手をさえぎられて以来、
どんな逆風も追い風にしてわが船は帆を張る。
”ないものねだり”ではなく、”あるものを育てよう”
ぼくたち人間はつい何かを求めがちだ。自分にはないものを欲し、”求め”てしまうのだ。そして”求めた”ものを手に入れようとするが、うまくいかない。ないものねだりをしても、そう得られるものはない。だったら、自分の中にあるものを見出そう。他人にもないものを求めるのではなく、他人にある良いところを見出そう。おのれ自身のもつ徳を見つけ、その徳を活かし、様々な行動をしよう。その徳をじっくり育てよう。そうすることで、ぼくたちは自分にすでにあるものをもっといいものに変えていけるんだ。
”逆風”を”追い風”に変える心
風に行く手をさえぎられることもあるだろう。風とはその場の空気や雰囲気ともいえよう。たとえ風にさえぎられても、自分の行くべき方向を見定めて、どんな逆風も追い風にするめげない心と工夫が大事なのだ。風があればどこにでも進める船、あなた自身が実はその船なんだ。まとめ
” ないものねだり”ではなく、君のもつ”徳”を育てあげろ。たとえどんなに反対されようと、その逆風を追い風に変えるめげない心と工夫を持つのだ。10番 軽蔑者
私は、多くのものがこぼれ落ちるがままに任せる。
それゆえ君たちは私のことを、軽蔑者と呼ぶ。
あふれんばかりに注がれた杯を飲み干す者は、
多くものがこぼれ落ちるがままに任せるが−−、
とはいえ、酒のことを軽んじているわけではない。
軽蔑の意味
軽蔑するとは、どういう意味だろう。辞書によると、”軽んじてあなどること,見下げること,ばかにすること”だという。軽蔑者とは、見下す者、軽んじる者、バカにする者ということだ。軽蔑者と呼ばれども、そのもの自体を軽んじているわけではない
”こぼれ落ちるがままに任せる”私を人々は軽蔑者と呼ぶ。これはどういうことだろう。たとえば盃からこぼれ落ちそうな酒をかき集めてでも飲もうとするのが通常の態度だろう。だけど、酒がこぼれ落ちるがままにして酒を飲むのは、酒を軽んじているのだと通常は考えるだろう。だがニーチェはそうではなく、”酒のことを軽んじているわけではない”と言うのだ。酒がこぼれ落ちるに任せても、酒の味を味わないわけではない。そうではなく、むしろ余計なことに気を使わずに酒を飲み、酒の味を一層味わうのである。
酒をあなたのコンテンツに言い換えると?
この酒をコンテンツに言い換えればどうなるだろうか。コンテンツ、つまりあなたの中身を全部味わいつくそうとしても、全部味わえるわけがないのだ。だから全部味わおうとする態度を取らないで、こぼれ落ちてもコンテンツを深く味わおうとしたほうが、結局良いのだ。つまり、全部味わいつくそうとしても、些細なところまで味わいつくそうとして、些細なところにばかり気が取られる。その結果、そのコンテンツ自体を十分に味わい切れないこともあろう。そんなことになるよりかは、こぼれ落ちるところがあっても、細かいところなど気にせずそのコンテンツ自体を味わえということだ。