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『慈雲尊者の仏法』第2回 いのちと平等 小金丸泰仙|書評


どうもこんばんは、高橋聡です。今回は『慈雲尊者の仏法』の第2回「いのちと平等」というテーマで最も大事な問いは何かを考えてみたいと思います。ぼくがこの回で最も大事な問いだと感じたのは、”なぜ殺してはいけないのか?”という問いです。ご存じの方も多いと思いますが、仏教には不殺生戒というのがありまして、、この不殺生戒の根拠となるものは何か、ということについて今回は考えていくことになるでしょう。

その前に前回の記事についてお知らせしておきましょう。

前回は第1回のミクロダイジェストについて考えてきました。釈迦が考えた仏法とはどういうものか、慈雲尊者は徹底的に問い詰めて行動したのでしたね。

それでは第2回についてみていきましょう。

十善戒と不殺生戒

慈雲尊者は仏教における戒律の根本には、十善戒があると考えています。十善戒は人類全体に適用できる道というべきもので、この十善戒を守らないと仏の道を歩むことができません。十善戒は道であり、もっとも規範的な倫理です。この十善戒の一番最初に不殺生戒が置かれています。なぜ第一に不殺生戒がおかれているのでしょうか。それは仏教において無益な殺生が最も大きな罪だと考えられているからです。

いのちの連鎖

ではなぜ殺生が大きな罪だと仏教では考えられるのでしょうか。それは、いのちが存在するからこそ、人類の先祖も存在し、人類が存在し、自分自身が存在するからです。いのちが自分自身とつながっている、このゆるやかながら大事な連帯が存在するからこそ、すべてのいのちを尊重し、殺生を禁じているのです。いのちの存在が地球上のあらゆる場所にあることを思い起こせば、神秘的な気持ちになるとともに尊さとありがたみを感じることができる人もいるでしょう。かくいうぼくもそういう人間です。

また仏教では自己の尊重を重視します。自己を尊重するとは、同じ感覚をもった人間すべてを尊重することにつながります。自己を尊重することは、さらに人間と共通のいのちをもった存在すべてを尊重することにつながります。こうして自己の尊重は他の人びとの尊重へと通じ、さらにいのちの尊重へと至ります。そしてそうしたことに気づいたとき、すべての秩序は秩序としてあるが、ただものごとがあるがままにあるという状態において、平等であるという自覚が自分自身にわきます。

平等と空

蟻であろうと、猫であろうと、人間であろうと、優劣なくただそこに存在している事実を受け入れることができるようになります。これが大乗仏教でいう空の境地です。別の言い方をすれば無分別智ともいいます。好き嫌いや優劣で分別から離れることが平等の境地であり、同時に空の境地なのです。

なぜ殺してはいけないのか?

では本題に入りましょう。なぜいきものを殺してはいけないのでしょうか。それは自己の一念心、一瞬の心は無垢でいのちの存在が自分の存在とつながっており、さらに自己の尊重が他者や生命への尊重となってあらわれ、平等の心を自覚することができるからです。

まず前提として、衆生がいるから人や仏も存在する、という自覚が大事なんです。つまりすべての生命体がいなければ人間は生きていけませんし、仏になる人もでてこないでしょう。だからこそいのちある存在を無益に殺してはいけないのです。
さらに自己の尊重という観点からも、殺生は否定されます。自己の尊重は結果的にいのちの尊重へと至り、さらに自他を隔てている分別の心から離れることによって、平等を自覚するにいたります。自他の優劣もなければ、分け隔てもなく本来存在は一体なので、殺してはならない、ということができます。自然のままにものごとを存在していることが平等であり、空の境地なのです。そうした空の境地にいたるためにはいのちある存在を殺してはいけません。
上のことばで表現される殺してはならない理由というのは、仏教のことばで一言でいうと慈悲になります。慈悲心から殺してはならないのです。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。仏教の精髄である慈悲は、不殺生の理由を考えることで浮き出てきてわかります。

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