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『慈雲尊者の仏法』第3回 自己の分限を見極める 小金丸泰仙|書評

 
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どうもこんばんは、高橋聡です。今回は『慈雲尊者の仏法』第3回のミクロダイジェストになります。第3回のテーマは「自己の分限を見極める」ということです。それではさっそくみていきましょう。

前回までの記事について少し触れておきましょう。

慈雲尊者の仏法シリーズで今回は記事を書いています。『紙1枚読書法』のミクロダイジェストをもとに作成しています。

主要な問いと答え

この回のぼくにとっての一番大きな問いかけは、”自己とは何か”という問いです。この第3回では、自己とは”空なる現象の現れであり、相互依存的に他者と併存しています。あるべきように自己の分限を使い切って生きるとき、真なる人生の道が開ける”というひとつの回答がある、とまとめることができます。

自己の分限

法性(あるがままの存在)は清浄無垢かつ空ゆえに縁起がおこる、と慈雲尊者は説きます。物に実体がないという空の状態は、物はそれ自体では存在せず、縁起のもとで相互依存的に存在しています。縁起とは空なるものが現象し続けることを指します。
そうしてそれぞれの存在が自分のなすべき法性のはたらきをする、それが真実の世界です。それぞれ現象として現れている存在は、差異があると同時に「分限」をもち、その人本来のあり方はその人の法性のままに生きること、あるいは分限を最大限発揮して生きることだといえます。

あるべきようわ

鎌倉時代を生きた法相宗の僧、明恵上人は「あるべきようわ」という言葉を大事にしたと言われております。そのことばの通り、自分の本来の姿のあるべきようは何か、と問うことが仏教では重要なのです。自己のあるべきように生きる、これを目指すことが素晴らしいと日本の仏教では考えられました。

人生をあるがままに生きる

このように考えると、人間はすでに決定されている自己の分限を自覚し、さらにその分限をまっとうして生きることが大事だといえるでしょう。これは言い換えれば、その人なりの理(ことわり)の中で生きる、ともいえるでしょうし、自分の人生の主人公は自分しかいないこととも関係します。

あるものだけを使って生き、与えられないものに目を向けずに人生を生きることが仏教では求められます。与えられないものを強奪する行為は、仏教では偸盗と呼ばれ、固く禁じられていて十善戒の一つ、不偸盗戒として明文化もされています。

まとめ

ここでいえることはこうでしょう。自分自身の本分(分限)をまっとうすることで、善の行為を人間は実践できます。さらに衆生にはそれぞれの役割や分限があり、それゆえ殺してはならないし、奪ってもならないのです。結局第2回の言いたいことともつながりますが、分別意識を過度に働かせずに無分別智にいたれば、悟りは近い、といえるでしょう。

以上、今回は『慈雲尊者の仏法』第3回「自己の分限を見極める」についてのミクロダイジェストを紹介しました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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