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『慈雲尊者の仏法』第1回のミクロダイジェスト|書評

 
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どうもこんばんは、高橋聡です。今日から『慈雲尊者の仏法』のミクロダイジェスト、つまり章ごとの要約をこのブログに載せていきたいと思います。




ぼくが本書の第1回の部分で特に大きな問いだと感じたのは、”慈雲尊者はなぜ釈尊の仏法への回帰を目指したのか”ということです。言い換えれば、仏はどの場所から語りかけているのか、私たちをどこに導こうとするのか、という問題意識を慈雲尊者が常に持っていた、ということです。




本書からぼくが読み解いたこの問いへの回答はこうです。いろいろ説かれる仏法がありつつも、”本来の釈尊の仏法が悟りへの最短の道”だからです。慈雲尊者は江戸時代末を生きた仏法者で、現代のように近代仏教学の知見を使うことはできずに限られた仏教経典にしかアクセスできませんでした。それでも原始仏教の精神に近い教えを再現したといえるでしょう。




では慈雲尊者は具体的にどういう教えを説いたでしょうか。




一つが「如実知自心」という教え。本来の自分の心を明らかに知ることが、仏法の目的であると慈雲尊者は考えました。




さらに二つ目に、全宗派に共通した三学による修行の実践を説きました。三学とは、戒・定・慧のことです。戒とは仏法の戒を守ることです。戒とは自分のためにある規律のことです。定とは禅定のことです。瞑想による精神統一を行い、自分自身の感情や思考の起こり方を見つめ、自分を知る行為のことです。慧とは智慧のことで、悟りに至る智慧のことを指します。原始仏教同様、慈雲尊者は仏法の規律を守り、禅定を行って、智慧を会得して伝える、このことを重視しました。




三つ目は、身口意の三業を重視することです。体による行為、口による発言、心による意識を清らかなものにする、というのが慈雲尊者が大事にしたことです。




世俗では金や物、命というものを大事にします。対して慈雲尊者は仏法で最も尊ぶべきものは心だといいます。心を現す手段として慈雲尊者が用いたのは書(書道)です。たくさんの書を慈雲尊者は残しましたが、「書は心画なり」と慈雲尊者は言いました。書が心を表す一種の絵のようなものだ、という意味でしょうが、書に心が現れるというのは間違いないと感じます。




日本仏教では通常宗派の教えを大事にします。ところが慈雲尊者は「僧は宗派を別として、修行することができる」と考えました。なかなか宗派横断的なことをできる人は現代でもいませんが、身分制の残る江戸時代において慈雲尊者はそれをやってのけたのです。




第一回ではこのような慈雲尊者がどのようなことをやりとげたかと、彼の仏法の特徴がおおまかに説明されていました。




この第1回の部分を見て感じることは、原点回帰の思想は大きなエネルギーを持つと言うことです。ぼくがすむ大阪の地にこういう慈雲尊者のような方が出たのは誇りですし、栄光なことです。もう少し名前が知られても良い方だと思います。




仏教とはどういう教えかをもう少し考えながら慈雲尊者のことをもう少し深く学んでいきたいと思いました。




以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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