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過去の投稿シリーズ:ゾシマ長老の指摘―ドストエフスキーの科学に対する見方について

こんばんは!

草の根平和推進者 平高橋聡です!

過去の自分なりの拙い論考をここに載せます。

過去に書いたものは読み返すのも恥ずかしいですが、
過去の自分なりのメッセージが含まれているので、乗せることにしました。
これ以降、何度か過去の論考を載せることにします。

2010年09月14日21:04 mixi日記より

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最近はいつも『未来のなかの中世』所収の論稿をまとめた記事だけを載せていましたが、
見てくれてる人も(あまりいないでしょうが)、
書いてる方も飽きてきたと思うので少し別の切り口の日記をつけてみようと思いました。 


 さて、ゾシマ長老が修道僧に対して一般の世の中の人々について語るシーンがあります。
そこから抜粋。(『カラマーゾフの兄弟(中)』新潮文庫 原卓也訳より) 

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)
ドストエフスキー
新潮社
1978-07-20



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彼ら(一般の世の人々)には科学があるが、
科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。
人間の存在の高尚な反面である精神の世界はまったく斥けられ、
一種の勝利感や憎しみさえこめて追い払われているではないか。
世界は自由を宣言し、最近は特にそれがいちじるしいが、
彼らのその自由とやらのうちにわれわれが見いだすものは何か。
ただ、隷属と自殺だけではないか!
なぜなら俗世は言う。
『君らはさまざまな欲求を持っているのだから、それを充たすがよい。
なぜなら君らも、高貴な裕福な人たちと同等の権利を持っているからだ。
欲求を充たすことを恐れるな、むしろそれを増大させるのがよい』
―これが俗世の現代の教えである。
この中に彼らは自由を見いだしているのだが、欲求増大のこんな権利から、どんな結果が生ずるだろうか?
富める者にあっては孤独と精神的自殺、貧しい者には妬みと殺人にほかならない。」
//
 この調子で俗世の批判が続けられ、次いで修道僧がそれをどう助けられるかが語られるのですが、
この批判を我々は痛切に受け止めなければならないと思います。 

解説書なども何も読んでいない段階で、何一つわからないに過ぎないですが、
私にはドストエフスキーがこの作品の中で自己の主張をゾシマ長老に代弁させている箇所がいくつもあるように思います。
つまり、この箇所はドストエフスキーの主張だと私は思っているわけです。 


ドストエフスキーは、科学を信じて進む未来には、隷属と自殺しか残らないというのです。
この点で、トルストイも人生論の中で科学・学問は真の幸福をもたらすものではない、
と批判したことも参照しておいて良いかもしれません。
ドストエフスキーとトルストイとは立場さえ違え、科学や学問がもたらすものは、悪であることを見抜いていたのです。 


20世紀に、科学の発達の極みともいえる核兵器が開発され、実際にそれが使用されたのも、その悪の一つだと言えましょう。
人類は、自らの手で自らの命のすべてを消し去ることができる技術を手にしてしまったのです。 


 ただし、現代世界において利便性を向上させるために様々な科学・学問が利用されています。
これらをすべて否定してもとの生活に戻ることは出来ないのであります。
言ってしまえば、我々は利便性のために科学・学問の発展を止めることなど出来やしません。

 

ではどうすればよいのか。
科学・学問の発展がもたらす(生の)隷属と自殺に対抗する価値観・哲学を個人個人が持つしかありません。
それは、人によっては何らかの宗教でありましょうし、実存主義の考えであることもあるでしょう。

科学万能主義、ニーチェの言葉を借りるなら論理ソクラテス主義といったものと共存ができる
考え方をそれぞれが持たなければならないのです。 



科学・学問は確かに必要です。
ですが、人間の本質を求めてようとすればするほど、
今の科学はあまりにも細分化され、その本質の問題から遠ざかっているのではないか、とさえ思ってしまいます。

この科学の力だけを信じるのではなく、それに対抗しうる価値観を個々人が身につけることが必要なのではないでしょうか。

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6年前の論考です。
拙いものですが、最後に科学万能主義に対抗しうる価値観と当時は考えていました。
しかし、現在はいかに共存しうる考え方ができるかを改めて重要視しています。

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