どうもさとやんです。
前回に引き続き、般若心経に関連する記事です。最近GoogleGeminiと仏教の談話をするのですが、
「私の心は私のものではないと感じることができた時、つまり心が私のコントロール下にないことを知る時、つまらないことに悩んでばかりいても仕方ないと感じることが出来ます」
という境地に達することができたので、その理論的背景をシェアいたします。
「心無罣礙」
般若心経の一つ目指すところとして、「心無罣礙」(しんむけいげ)という境地があります。
「心無罣礙」という境地は、心に障害がない状態のことです。
この「心無罣礙」の境地に至るには、我執と我所執を捨て去らなければなりません。
我執とは、私という不変の実体があるということへのこだわりのことです。簡単にいえば、自我と魂が結びついて存在しているという考え方のことをさします。
我所執とは、私のものという所有物や地位に対するこだわりをさします。
この二つが悟りに必要なことは初期仏教以来説かれてこられたと言ってよいでしょう。
そのために有効な方策だと考えられたのが、諸法無我という境地です。
諸法無我は、あらゆる存在には、私という不変の実体が存在しないということをさします。
諸法無我で私が特に大事だと感じるのは、私の心のコントロール権は私に存在しないと気づくことです。これに気づくことで、「心無罣礙」の境地が一気に近づくことになります。
空の理論的側面
空というのは般若心経の重要なタームですが、この言葉は大きく三つの意味を含んでいるように感じます。
- 諸法無我の徹底
- 縁起の肯定
- 空の成立
諸法無我の徹底は少し説明しましたが、これは無自性ということばで表されることばに行きつきます。無自性とは、それだけでは成立しないという意味です。
仏教はもともとバラモン教に存在していたアートマンの思想を否定するところから出発したと言われております。バラモン教ではアートマンは不変の実体を意味する言葉でして、魂とか気息という人々が輪廻を転生した際にカルマ(業)を蓄積する場所として考えられたものがもとになっているといっていいでしょう。仏教はそのような我(アートマン)を本来認めないですし、我と梵(ブラフマン、世界の根源的実体)が一致するという哲学説も認めていない[梵我一如の否定]のです。
そうして諸法無我を徹底していくと、実体が存在せず、他の条件によって私たちは存在していることを認めなくてはいけなくなります。これが縁起の積極的肯定という考え方であります。縁起説というのは、もともと縁って起こるという意味です。さまざまな因と縁から結果が形作られている世界がここにあるのです。
そして否定と肯定がそろったときにはじめて空という思想はより積極的に私たちが生きやすい考え方へと昇華されます。
心のスペースとして余裕が感じられるときに、私たちはより現実を生き抜くことができる存在となることでしょう。

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