過去の投稿シリーズ:石川文康『カント入門』 第五章メモ1
こんばんは!
草の根平和推進者 平高橋聡です。
過去の投稿シリーズです。
2011年04月13日11:13 mixi
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人間は感性界に属する存在者としては、完全に自然因果の支配化にある。
対して英知界に属する存在者から感性人に向かって影響する力こそ、第一の始めであり自由である。
自由は感性人における出来事の究極原因となってはたらくことを「自由による因果性」と呼ぶ。
上の建物の例えで示したことは、道徳にも同じようにいえる。
真の道徳の基礎付けをカントは行おうとするのである。
仮象道徳(手抜き工事の上に成り立つ道徳)ではなく、真の道徳を。
そういう意味でもやはりカントの倫理学は厳格である。
草の根平和推進者 平高橋聡です。
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2011年04月13日11:13 mixi
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●自由の保証
第三アンチノミーの考察と解決
―理論哲学から実践哲学・倫理学へ移行する基盤を得ることになる
なぜなら、第三アンチノミーは自由と自然必然をめぐるものであったが、
カントにおいては自由こそ道徳の基盤をなすものだから。
カントにおいては自由こそ道徳の基盤をなすものだから。
第三アンチノミー
テーゼ:自然法則による因果性だけでなく、自由による因果性もある。
アンチテーゼ:自由は存在せず、すべてが自然法則によって起こる。
自由―物事の第一にして絶対的始め かつ 自律 を意味
ところが現象世界においては、因果の鎖ははてしなく続き、どこまでいっても絶対的始めにたどり着かない
どちらの命題も真。それぞれの主張の妥当範囲を制限したうえではじめて解決可能になる。
人間は感性的存在者として、空間・時間の制約のもとに現象界に属している。
一方、人間は理性的存在でもあり、空間・時間から解放されており、その意味で物自体の世界に属している。
―超越論的観念論
一方、人間は理性的存在でもあり、空間・時間から解放されており、その意味で物自体の世界に属している。
―超越論的観念論
人間は英知界と感性界の両方にまたがって存在している。
人間は感性界に属する存在者としては、完全に自然因果の支配化にある。
対して英知界に属する存在者から感性人に向かって影響する力こそ、第一の始めであり自由である。
自由は感性人における出来事の究極原因となってはたらくことを「自由による因果性」と呼ぶ。
第一アンチノミー同様、第三アンチノミーにおいても、時空の支配下にある感性的存在様式と、
その支配を免れた英知的存在様式によって、人間の存在様式は完全化された。
その支配を免れた英知的存在様式によって、人間の存在様式は完全化された。
英知界=自由/感性界=自然因果
第三アンチノミーも仮象矛盾である。
●仮象道徳と真の道徳
カントの道徳は、善意志という概念から出発する。
善意志とは、善の物自体のことである。
道徳において徳を仮象の徳ではなく真の徳ならしめるのは善の物自体である。
通常物自体は認識不可能であるが、善の物自体は体現可能である。
善意志とは、善の物自体のことである。
道徳において徳を仮象の徳ではなく真の徳ならしめるのは善の物自体である。
通常物自体は認識不可能であるが、善の物自体は体現可能である。
カントの倫理学の出発点、善意志は厳格である。というのは、善意志は義務という概念に凝縮されるから。
一切の利害を離れて逆境にあってもなお、善を実現するためには義務感が前提にされ、
これをもって臨む以外ない。
一切の利害を離れて逆境にあってもなお、善を実現するためには義務感が前提にされ、
これをもって臨む以外ない。
建物の価値は、例えば立地の利便性や使い勝手の良さ、外見などで決められることが多い。
しかし、建物の真価は、危機に臨んだときに認められる。
すなわち、大地震や台風などのときである。
危機に耐えうるには、基礎設計がしっかりしていなければならない。
しかし、建物の真価は、危機に臨んだときに認められる。
すなわち、大地震や台風などのときである。
危機に耐えうるには、基礎設計がしっかりしていなければならない。
上の建物の例えで示したことは、道徳にも同じようにいえる。
真の道徳の基礎付けをカントは行おうとするのである。
仮象道徳(手抜き工事の上に成り立つ道徳)ではなく、真の道徳を。
そういう意味でもやはりカントの倫理学は厳格である。
義務は命令文の形であらわされる。
道徳における命令文の方式をカントは命法と呼んだ。
命法には二つの種類があり、条件付き命法(仮言命法)と無条件命法(定言命法)がそれである。
道徳における命令文の方式をカントは命法と呼んだ。
命法には二つの種類があり、条件付き命法(仮言命法)と無条件命法(定言命法)がそれである。
仮言命法は、条件句がなくなれば命法の内容も無意味になるという問題を孕む。
それは、カントの用語でいえば、普遍妥当性をもたず、法則としての資格はない。
第二に仮言命法にあっては、命令そのものより条件が主眼にあって、それが行為の動機になっているという問題がある。
「もし人に信用されたければ、嘘をつくなかれ」という仮言命法は、嘘をつかないことが最終目的ではなく、
自分が信用されたいということが最終目的であり、
かつそれが嘘をつかないという行為を促す隠れた動機になっている。
こういうものはエゴイズムの原理以外なにものでもない。
それは、カントの用語でいえば、普遍妥当性をもたず、法則としての資格はない。
第二に仮言命法にあっては、命令そのものより条件が主眼にあって、それが行為の動機になっているという問題がある。
「もし人に信用されたければ、嘘をつくなかれ」という仮言命法は、嘘をつかないことが最終目的ではなく、
自分が信用されたいということが最終目的であり、
かつそれが嘘をつかないという行為を促す隠れた動機になっている。
こういうものはエゴイズムの原理以外なにものでもない。
これに対して、定言命法は端的に「嘘をつくべきではない」という命法などである。
カントによれば、これのみが真の道徳法則である。先ほど上げた2つの問題点から解放されている。
カント自身、仮言命法をはっきりと「道徳性のにせの原理」と呼んでいる。
カントによれば、これのみが真の道徳法則である。先ほど上げた2つの問題点から解放されている。
カント自身、仮言命法をはっきりと「道徳性のにせの原理」と呼んでいる。
例えば教師が生徒に徳を教える際に、「他人に親切にしましょう」と言うだけでなく、
一連の教育的効果をねらって、「自分が他人に親切にしてもらいたかったら」という動機付けをおこなうとする。
他人に親切にすることで、「他人から親切にされる」ということをほめられたとする。
すると、他人に親切を施すことで自分の幸せが訪れたと考えるようになる。
いわば、見返りを求めて親切という行為をなすようになってしまうのである。
そうなれば、見返りが得られないときに親切を行う必要がない、という考えを根付かせ、
促進することにもなりうるのである。
一連の教育的効果をねらって、「自分が他人に親切にしてもらいたかったら」という動機付けをおこなうとする。
他人に親切にすることで、「他人から親切にされる」ということをほめられたとする。
すると、他人に親切を施すことで自分の幸せが訪れたと考えるようになる。
いわば、見返りを求めて親切という行為をなすようになってしまうのである。
そうなれば、見返りが得られないときに親切を行う必要がない、という考えを根付かせ、
促進することにもなりうるのである。
カントはこういったことから、仮言命法で作られた道徳を否定する。
動機による道徳教育はまれにしか効果を見ない。
またそれが悪へ繋がり、あるいは打算的な人間を生み出したり、エゴイズムに落着する。
これが動機付けの倫理にひそむパラドックスである。
動機による道徳教育はまれにしか効果を見ない。
またそれが悪へ繋がり、あるいは打算的な人間を生み出したり、エゴイズムに落着する。
これが動機付けの倫理にひそむパラドックスである。
対して、動機を一切考慮しないような道徳行為は、即効性こそないもののそれだけかえって末永く人の心に残る。