人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

小池寿子「死の中世」

 
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『未来のなかの中世』所収
 最近はさまざまな分野で「死」についての研究が行われている。それは「生命体としての社会的人間のあり方にかかわる問題」なのである。生と死を対立概念でとらえるのではなく、「生の延長線上の死、また死にいたる緩慢な生」という見方の死生観が必要なものとなってきた。
 しかし、新しい死生観などというものはなく、このあまりに普遍的な問題について、「人類はおおよそ考えうるすべてを対処してきたはず」であり、この点で歴史的死生観を見ることは有益である。科学が発達し、具体的な方策こそ違え、「生死の本質」は変わることがない。
 「バイユーのタピスリー」というものがある。それは11世紀のもので、エドワード懺悔王の死の場面を記録したものである。エドワード懺悔王の死の迎え方はキリスト教の善死の先駆けとなるものである。
 中世において、死者とその親族・関係者が臨終から埋葬まで行うことは、いくつかの段階に分かれて細分化されてた。まず、「死を予感すること」にはじまる。ついで「自身の犯した罪の赦しを故意、その償いを周囲の者に指示」する。さらに、「遺族たちの加護を神に祈り場合によっては墓所を選ぶ」。そして、「別れの挨拶についで祈祷が行われる」。これがすむと、「死にゆく者は死の訪れを待つ」。
 死が「自身の身体と霊魂の問題であると同時に社会的な問題で」あった。つまり、死は「個人としての、また社会的存在としての人間との決別」である。国王の場合は特に後者のあり方に責任問題が賦与されるのである。
 さらに死に際して、「謙遜の美徳」というものが重視された。自身を卑下する謙遜の美徳は12世紀の修道院改革運動を経て一般化していった。謙遜の美徳は、罪の告解とともに臨終から死に至る過程で重視された。罪の告解は、第四ラテラノ公会議で義務化され、年1回の秘密告解(すべての罪を告白すること)が一般信者にも求められた。
 謙遜は自身の非を認め、心身をできるだけ低めることである。懺悔も悔悛も、大地により近い位置に身を伏すことも、謙遜の美徳とされた。エドワード懺悔王は修道士のような衣服に着替えて、敬虔なキリスト教徒として死を全うしている。この習慣は17世紀まで残存した。エドワード懺悔王の死の迎え方は、キリスト教徒にとってまさしく「善死の先駆」だったのだ。
 中世における葬儀は4つの部分から成り立っていた。
 1.死者を迎えた周囲の人たちの喪の悲しみの表現
 2.個人に対して赦免の祈り「棺側の祈祷」が繰り替えされる
 3.葬送が始まる。以外は質素な布や高価な織物の帷子で包まれ、棺台に横たえられて墓所に運ばれる
 4.棺台に実物の遺骸を置く代わりに葬儀用肖像を載せる
 4の意味は、棺台の上にあるのが朽ちることのない王権の象徴としての国王であり、棺の中に納められた遺骸は死せる個人としての国王である、という「二重の死の表現」なのである。
 中世末期以降、臨終と葬儀の次第は細分化し高度に儀礼化したものになっていった。それは、「死が自身のものであると同時に社会的なもの、他社にかかわる問題であるとの認識がより高まったため」とも言えよう。「死は現世の終着点であり、来世への出発点であります。この通過儀礼が滞りなくよりよく行われるには、自身の死に対する態度とその死にゆく者をとりまく者の死に対する態度が共鳴しなければなりません。…確固とした死生観を自他ともに築き上げてゆくことが必要ではないでしょうか。」と筆者は最後に主張する。

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Comment

  1. 風香 より:

    はじめまして<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/228.gif&quot; alt="クローバー" width="16" height="16" class="emoji" border="0">
    私は哲学はぜんぜん、学んでおりませんので…
    ちょっとちんぷんかんぷんなことになりましたら、お許しくださいね!
    あなたご自身はどのようにお考えですの? 『死』に対して。。
    ちょっとお聞きしたくなりましたので(笑)
    よろしくお願いいたします<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/342.gif&quot; alt="顔(願)" width="16" height="16" class="emoji" border="0">

  2. たかはしさとし より:

     はじめまして
     私は生と死が対立概念だと思わず、生の延長線上にあるものを死だと捉えています。
    (最近読んだトルストイの「人生論」の影響が強いです)
     人間は二つの点で生きていると思ってます。
     一方は、①個人としての生(動物的な生と)、他方は、②社会の生です(人間的な生)。
     注意しておきますがこの二つの生は対立的なものではありません。生きているうちにあっては、一方が他方を補うという形で両者不可分のものです。この①の生はやがて死に至りますが、②の生は永遠に不滅です。私の考えるところによりますと、精神とは①と②の積極的綜合なのです。
     死とはそういった点で生の一部分でしかありません。たしかに、名が残ることもおそらくはないですが、社会になにがしら影響を与えたという点で、過去を生きた人もその社会的生は生き続けていると思ってます。
    この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ4:13-14)
     私の解釈によりますと、永遠の命とは②のことなのであります。
     ②でいう社会とは何か。個人と個人との相互関係、およびその綜合を社会と呼びます。人は一人では生きていけないのであって、人間は社会的に生きているのです。個人的生の終わりを死と呼びますが、これは社会的生への完全な昇華の契機として存在している…とも言いえましょう。
     以上が私の死生観です。

  3. 退会したユーザー より:

    社会的な生という観点から死を見つめるという考え方は自分の考え方にとってとても新鮮です。
    あと、以前ニーチェのコミュニティーで、肉体の死が自分という存在の永遠の死だということに気付いたのも思い出しました。肉体という原子の集合体があり、それらのエネルギーの相互交換によって自分という思考する物体がある。そしてその原子の集合体としての肉体の消滅が精神の消滅である。肉体と精神を切り離して死を見つめるのは考えられないのだと。
    しかし、肉体の消滅によって自分はこの世から消えるけど、自分が消えてもなお生き続ける人達の記憶には生き続ける。完全にその人たちの記憶から消えた日に初めて自分は死ぬのだとわヴぇさんの日記を読んで感じました。

  4. たかはしさとし より:

     たしかに、そういった捉え方も出来るかもしれません。
     ただ、私が言う「社会的生」は、仮にその人の名がすべての人から消え去ろうとも、まだなお生き残るものなのですよ。人類がこの世に生き残る限り、社会がある限り、社会的生はなお生きる、と言いましょうか。それはその人の存在と影響を、少なくともその人が属する社会が消滅するまで、存続するのですよ(実はその社会に属していない人にも、自分の友人や子孫がそういった別のコミュニティーに交わることで、いずれ影響が及ぶという点で、他のコミュニティーの生と融合が起こってなお生き続けると信じています)。そういった点で「永遠の命」なのです。

  5. 風香 より:

    こんにちは<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/228.gif&quot; alt="クローバー" width="16" height="16" class="emoji" border="0">
     突然の書き込みでしたのに、丁寧にお応え頂いてありがとうございます。
     
     あなたは、クリスチャンですの?
     
     あなたが言われているのは頭だけで理解されていることなのでしょうか?それとも、あなたの内側から(霊的)そう思うでしょうかしら。。。
     教えて頂ければと思います。
     よろしくお願いいたします。。(^_-)-☆
     追伸
     書き込みが遅くなりましたのは。体調が悪く、申し訳ありませんでした<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/234.gif&quot; alt="もみじ" width="16" height="16" class="emoji" border="0">
     

  6. たかはしさとし より:

     クリスチャンかと言われればクリスチャンです。ただ聖書は人間の言葉だと思うし、三位一体も信じているとは言えませんが。
     頭の中でそういう風に思っているというのは大きいですね。だからといって他人にこれが真実だ、と押し付けるようなことが出来るほどのものでもないとも思います。霊的に信じているかと言われると、それはどうかわかりません。ただ自己の精神の中では信じかけているとは思います。
     死ぬということは、重大事ではありますけど自然なことですし、死に対する恐れも多少はありますが怯えきるといったことはないです。

  7. 風香 より:

    こんばんは
    ありがとうございます<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/228.gif&quot; alt="クローバー" width="16" height="16" class="emoji" border="0">
    何を信じていて、クリスチャンだと思われるのですかしら?
    イエス・キリストを神さまだと信じていらっしゃるのでしょうかしら…<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/75.gif&quot; alt="exclamation & question" width="16" height="16" class="emoji" border="0">

  8. たかはしさとし より:

    いえ、イエスを神だとは信じていませんし、キリストであるとも信じていません。ただ福音のイエスの言葉は、人間の真理について語っているのではないか、と信じている点でクリスチャンなのです。

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