『死にいたる病』10 1-C-A-b-α(1-3-A-b-α)
α 可能性の絶望は必然性を欠くことである
「自己が自己自身であるかぎり、自己は必然的なものであり、自己が自己自身になるべきものであるかぎり、自己は可能性である」。
「ところで、可能性が必然性をあとにして独創すると、自己は可能性のなかで自己自身から逃亡し、かくして、じこの帰るべき必然的なものをなんらもたないことになる、これが可能性の絶望である。このような自己は抽象的な可能性となる」。
抽象的な可能性を持つ自己が絶望しているのである。可能性の絶望とは、人間が持つ可能性が絶望的状態になり、可能性が見いだせなくなることである。そのような抽象的な可能性は、具体性をなんらもたない。
可能性の絶望をしている人に欠けているものは、「実は必然性なのである。すなわち、哲学者たちが説くように、必然性が可能性と現実性との統一なのではなく、そうではなく、現実性が可能性と必然性との統一なのである」。…「そこに欠けているのは、実は服従する力なのだ、すなわち、自分の自己のうちにある必然的なもの、これは、自己の限界と呼ばれるべきものであるが、この必然的なもののもとに頭をさげる力なのである」。
このような絶望は、「本質的には、ふたつの仕方でさまよえるばかりである。そのひとつの形態は、願望的、希求的な形態であり、他は憂鬱的、空想的な形態である[希望―恐怖ないし不安]」。
願望の形態のときは、「可能性を必然性に連れ戻そうとはしないで、彼は可能性のあとを追いかける―そしてついに、彼は自己自身への帰路を見いだすことができなくなるのである」。
憂鬱の形態の場合は、「個人は憂鬱な愛情をいだいて不安の可能性を追いかける。ところがその可能性はついには彼を彼自身から遠く引き離してしまい、そこで彼は不安のなかで身を滅ぼす、あるいは、そこで身を滅ぼすのではあるまいかと、彼が不安に思っていたそのもののなかで身を滅ぼすにいたるのである」。
自分の将来を悲観しているのも、この形態の絶望であろう。そのときには、自分の必然性を失って、すなわち、自分の限界を見ないでいて、絶望しているのである。彼は現実を見失っているがゆえに未来を失っているのだ。