人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『隋の煬帝』 宮崎市定 中公文庫

 
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 本書は中国史上最も悪名高い隋の煬帝を中心に、隋という時代全体を描き出している本である。まず、南北朝という時代において皇帝の扱いやその背後にある社会的思想というものについて軽く触れ、南北朝の最後に位置する隋という時代に繋がる伏線を示唆する。親兄弟を倒してまで自己の権力を高め、それを保持しようとする姿があり、それが隋代まで続いていた。そして、隋の前代にあたる王朝、北周においての武川鎮軍閥の大きさを指摘する。これは後に唐の建国の際にも重要になってくる存在であり、その点からも外せないのだが、この武川鎮軍閥を巡っての文帝・煬帝の姿勢が隋の国勢を左右する大きな要因といっても良い。加えて隋の文帝の家族における独孤氏の強さ、即ち北朝政権における皇后の存在の大きさを確認している。そういった要素すべてがあってこそ、煬帝の即位があったのである。
 文帝の消極的倹約政治に対する、煬帝の積極的政治が様々な点で後の伏線となって現れている。また、様々な謀略といったものを使い、配下を根絶やしにしたり、積極的政治の弊害としての反乱の芽を噤むことをするが、結果的にこういったことが隋の滅亡に繋がっているのである。煬帝は内政においては運河の開拓事業を行っているが、外交政策においては高句麗征圧を行っている。3度行われたこの征圧は全てが失敗に終わり、この際に起こった楊玄感の反乱が直接的滅亡のきっかけといえよう。隋は民間のものが武器となるものを持たないように様々な対策を施したが、楊玄感の乱においての武器放出がその対策を崩し、他の反乱を呼び起こしたのである。この隋の反乱の特色は、知識人、宗教層、農民層等様々な階級から不満が爆発し起こされたという点で、他の時代の反乱の性質との違いがあり、これもまた興味深い。
 さて、そうして煬帝は首都長安から揚州に逃れたが、煬帝は南方から北方に戻る気もなく、北方から伴ってきた配下に殺されてしまう。最後に頼るものもなくなってしまったのは、やはり文帝から続く他人を信用せずに、ある者を一定の期間重用すれば後で切り捨てるという人材の使い方などに起因するところが大きい。自らが人間関係を蔑ろにしたため、結果的に人間関係で頼る点が何一つなくなったのである。
 本書は著者が様々な文献から得た知識を用いて色々な考えうる可能性を検証している。その点で、極めて評価が高い。これこそが歴史学の在り方だといえよう。『後記』で氏は次のように述べている。
 近ごろの歴史学は権力者を書くことを回避し、人的関係を蔑視したがる風があるようだが、これは何かの考え違いから出たのであろう。歴史学の最後の目的は、結局、人的関係を究明するに落ち着くであろう。人間の生活とは結局のところ人的関係にほかならぬからである。この人的関係は当然、個人と個人との関係も含まれねばならぬ。その関係の仕方がどのように変遷してきたか、を知るのは歴史学の重要問題でなければならぬ。
 まさしく、これこそが宮崎史学の真髄であろう。私もこのような視点で常に望みたい。かの司馬遷も様々な人的関係を追及し、歴史的事実の因果関係を描き出す。そのためのツールとして経済や法制等といったものがある。あくまでもツールにばかり目に行ってしまっては意味がない。
 もうひとつ、気になった箇所を上げておく。氏は附論『隋代史雑考』の中で、隋という国号についての考察を行っている。簡単に言えば随という字から之繞を除いて縁起の良い隋という字を定めたというのが、今日の定説となっているが、これは宋代につくられたものであり、金文等を見てもそのような事実はないのである。王朝名を隋として記すのは唐代でも当たり前とはいえなかったのだ。これは既に清代の考證学者が発見していた。氏はその最後に次のように述べる。
 隋字の問題は王昶の説で尽き、すべてが解決済みであると言っていい。然るにわれわれの常識はどうやら宋学の線でとまっているらし。こういうことは他にもしばしばあるらしく、せっかく清代の考証学者が苦心惨憺して研究した成果が看過されていては、地下の彼等としても甚だ不本意であるにちがいない。
 我々は自分の生きた時代の常識といったものが、最も進んだものだと錯覚しがちである。事実は、既に昔の時代の人が発見していたのに関わらず、それ以前の説を信じてそれが正しいと思い込んでいる。例えば、中世における天動説などもその類のものかもしれぬ。その時代の価値基準に照らして最も納得いきやすいものに便りがちであるが、事実はその通りとはいえないのである。確かに「隋」字がどうであるかは小さな問題ではあるけれども、特に自分に関心のある物事においては、そういった小さな問題も確認する心意気は必要だろう。過去の人たちが既に気づいていることも多いのである。
隋の煬帝
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