どうもみなさん、たかはしさとしです。おはようございます。今日は日曜日、ということで澤サロンの第11回noteもくもく会に参加しています。このもくもく会で集中して書くと、ちょうど1時間程度でぴったりと記事ができるので、本当に集中しているな、とわかりますね。とてもいい時間をもうけていただき感謝しています。
前回のもくもく会で書いた記事
このnoteもくもく会ではなぜか仏教シリーズでお届けしています。仏教の意外な側面などをわかりやすく説明したいな、と思ったのがきっかけでございます。初期仏教の考え方は特に合理的な教義体系となっております。前回は仏教の縁起説について考察いたしました。リンクは下からどうぞ。
まだ読んでいない方は、ぜひ読んでみてくださいね。
知恵|仏教的な知恵・智慧・般若
仏教における知恵と慈悲とはどんな位置づけにあるでしょうか。知恵も慈悲もどちらもとても大切なもので、行動するうえで忘れてはならない概念だといわれております。知恵とは普通仏教の用語では智慧と訳されます。また知恵は般若と音訳されることもあります。仏教的知恵=智慧=般若と覚えておいてくださいね。般若心経の般若とは、この仏教的な知恵の意味で使われています。
この仏教的な知恵とはどういうことをさすのでしょう。仏教的な知恵とは、すべての物事や道理を明らかに見抜く知的能力のことです。こう書くと簡単なように思えますが、その実践は難しいです。気遣うべきところでちゃんと気遣える人はどれだけいるか、しっかりと気遣えてなおかつその人の自律を促す素晴らしい行動っていうのは、難しいですよね。
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name="87txc">分別知と無分別知という考え方があります。分別知とは、言葉によって切り取られた世界を把握、理解する能力のことです。一方、無分別知とは、言葉によって加工される前の世界を把握、理解する能力のことです。仏教ではことばを介しての世界把握は真実をあるがままに見ていないと考えるので、無分別知のほうにより大きな価値を見出します。そして、仏教的な知恵とは実に無分別知のことをさすと言っても間違いないでしょう。
瞑想、あるいは禅定において仏教的な知恵とは、無常・苦・無我を理解する能力とされます。
無常・苦・無我について少しだけ解説している記事がこちらです。
そして大乗仏教では、無常や苦、無我を理解する能力とは空を理解する能力と同じものだとみなされます。つまり仏教的な知恵とは、空を理解する能力のことをさします。
ではなぜ仏教的な知恵が重視されるのか。それは初期仏教で成立した考え方、無明(=無知)から苦が生まれるという十二支縁起という一種の因果法法則があるからです。無知から生まれるのであれば、その無知を打破する知恵とは何か。そこを考え抜いたとき、知恵の内容が確定され、知恵の実践が叫ばれるのです。
慈悲|与え、同情する心
慈悲とは、他の生命に楽を与えて、苦を取りのぞこうとする心の働きです。もともと慈と悲は違う意味をさす言葉でした。慈はマイトリーとサンスクリットではいい、人々に楽を与えたいという心をさします。与える心ですね。悲はカルナーといい、人々の悲しみに同情するがゆえに、人々の苦を抜き取りたいと願う心のことをさします。同情する心ですね。<p
name="bECia">慈悲は、大乗仏教において特に重要だと考えられた概念です。大乗仏教では自分だけじゃなくて周りの人も救われるために修行をしたり、念仏をしたり、題目を唱えたりするのです。それゆえ他者に与え、同情する心である慈悲がとても重視されるのです。
知恵と慈悲に基づいた実践
知恵も慈悲もどちらも自分の能力だといっても問題はありません。ところが知恵はまず自分にベクトルが向いているのに対して、慈悲は他者にベクトルが向いていますね。仏教の実践は知恵だけでもだめだし、慈悲だけでもダメなのです。知恵に基づいた行動を行うことで、慈悲を理解してもっと同情したりすることもあるでしょうし、慈悲に基づいた行動を行うことで、知恵が増し加わる場合もあるでしょう。その点でいえば、二つは相互関連している概念ではあります。でも知恵も慈悲も自分側の能力ですから、結局他者に向けてその能力を発揮しないと意味がない、ということだけ申しておきます。知恵と慈悲のまとめ
仏教でいう知恵とは、ずばり物事をあるがままに見て、判断する能力のことです。一方慈悲とは、すべての人々に楽を与え、苦を取り除くことを望む心です。どちらも仏教においてはとても大事なものですけれども、知恵と慈悲のどちらも、実践的な行動に落とし込まなければ意味がありません。その点でいえば、行動して知恵や慈悲を求める道をとるのもありでしょう。以上、今日は仏教の知恵と慈悲について見てきました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
初冬の朝にたかはしさとししるす
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