すべてが自然法則で自由は存在しないのか
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない
イエス・キリスト
どうも、哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。前回はカントとヘーゲルにおける自由の概念について見ていきました。今回はカントの自由論、およびカントの道徳論と切っては切り離せない第三アンチノミーについて簡単に見ていきましょう。
アンチノミーとは?
ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)は『純粋理性批判』で4つのアンチノミーを提示しました。アンチノミーとは何か?日本語に直訳すると二律背反のことです。アンチノミーとは、相互に対立する二つの命題が同時に主張されることです。換言すると、アンチノミーとはあたかもどちらの命題も正しいように見える理性の根本的な矛盾のことです。特に自由に関わる第三アンチノミーはとても大事です。さっそく第三アンチノミーの中身について見ていきましょう!
第三アンチノミー
第三アンチノミー
テーゼ:自然法則による因果性だけでなく、自由による因果性もある。
アンチテーゼ:自由は存在せず、すべてが自然法則によって起こる。
アンチノミーとは理性の自家撞着であり、理性能力の極致で初めて現れるものです。この自由と自然法則のアンチノミーは正反対のことを述べていますが、これは一体どういうことでしょう。
数学で背理法という解の出し方があります。哲学でもこの方法が証明に使われることがあります。背理法でテーゼ、アンチテーゼともに考えて見ましょう。
テーゼ:もし自由による因果性がないと仮定しよう。その場合、すべてが自然法則による因果性によって起こることとなるであろう。そうなると、すべては世界の出来事は必然性の鎖で繋がれていることになる。だが、因果関係とは因果の前後関係をも含む。自然法則による因果性を突き詰めると、始まりがなければならなくなるが、すべてが自然法則の必然性の鎖としてある以上、始まりは見つからない。よって、自由による因果性がないと仮定すると、矛盾するために、自由による因果性は存在する。
アンチテーゼ:もし自由が存在するとしよう。自由とはある状態を絶対的に開始させる能力である。自由が始まりの状態を作り出す能力ならば、因果関係を作り出すものである。因果関係において全く結びつきのない状態すらも作り得るとすると、因果の法則に矛盾するものとなり、自由は存在しない。
理性能力だけで判断するとどちらにも正しいと出てきます。
さて、カントはこれをどう解決するのか?
第三アンチノミーの解決法
人間はまず感性的存在者としてこの世に生を受け、生まれ育つわけです。感性的存在者としての人間は、時間と空間の制約を受けながら感性界(現象界)にいます。
それと同時に、人間は理性的存在者としても存在しています。理性的存在者としての人間は、時空の観念を超えたところ、つまり英知界にも所属しているというのです。
カントの答えは簡単。
時間と空間の制約を受ける感性的存在者としての人間は、動物と同じで自然の一部です。この感性的存在者としての人間には自由はなく、自然法則による因果関係しか存在しないのです。
対して、理性的存在者としての人間は、特別な存在です。自由を持ち、すべてのものの絶対的始まりを作り出すことができます。
英知界=自由/感性界=自然因果、というわけです。
で、カントにおける自由の意味をもう少し考えましょう。
カントにおける自由の意味
自由とはなんでしょうか。
カントによれば、それは自律ということです。自律とはその名の通り、自分を律することです。自分を律することが最大の自由だ、と一見すると不可思議な自由概念を提示してくれます。
でもこれには意味があります。人間としての最高の状態は、自律できる人間、これだけだからです。
他律はいかんとカントはいいます。それは自分の意見ではないからです。他人に流されずに、自律して完全に生きよ!というメッセージがそこにはあります。
次回以降は他律の問題点についてかけたらいいなと思います!自律して自由にのびのび生きよう。