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苦しみから抜け出す方法を説くお経|釈徹宗『お経で読む仏教』 「はじめに」と第1章 ミクロダイジェスト 

 
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どうもこんばんは、高橋聡です。久々の更新となります。ブログ更新はさぼっておりましたが、いつも以上に読書の習慣は続けています。ただしアウトプットももっとしていかないと力にならないことも感じているので、少しずつアウトプットを増やしていきたいと思っております。

今回ミクロダイジェストを作成する本はNHK出版の釈徹宗さんの『お経で読む仏教』です。「はじめに」と第1章を読んでいてぼくが着目した大事な問いは”仏教のお経とは何なのか?”というものです。先にその問いの答えといえるものをぼくなりに示すと次の通りとなります。”お経とは、苦しみから抜け出すための方策が説かれた教えの集まり”であるということです。今回はその問と答えを巡って見ていきたいと思います。

仏教とお経

そもそも釈徹宗さんは、仏教とは苦しみの発生の原因とその対処法であり、苦しみの根本を立つことを目指す宗教である、といいます。その仏教の教えが詰まったものがお経(経典)ですから、お経には苦しみから抜け出す方法を書いてある、というのは当然といえば当然のことです。ですがお経と聞くと全部が漢字で構成されていてよくわからない、というイメージがつよく、その共通点があるとも思われない現状もありますので、こういった宗教やその宗教の聖典の特徴を意識しておくことはとても大事なことだと改めて感じております。

お経の教えによって、今抱えている苦しみをなんとか次の歩みへとつなげる、という大事さがあります。

代表的なお経

お経には本当に様々なものがあります。初期仏教のスッタニパータ、大乗経典である涅槃経、阿弥陀経などが本書では取り上げられています。そもそもお経とはパーリ語でスッタ、サンスクリットでスートラと呼ばれ、もともとは糸で綴じたものを指します。
お経の特徴は書かれているのは文字でも、「今そこにいる自分の問題」だという点です。自分の問題としてお経と読み解くことで対話的にお経を人生に活かすことができるはずです。

三蔵

仏教には経蔵、律蔵、論蔵という三つの教えの集まりが重視されました。経蔵とはブッダの教えが説かれたもの、律蔵はサンガの生活規範、運営規範などルールを集めたもの、そして論蔵はブッダの教えの解説、解釈、註釈などです。仏教ではこの三つを重視します。

大乗経典と大乗仏教

大乗経典とは大乗仏教で使われている経典のことです。特徴としては、それ以前の経典が個人の悟りを目指すものだったのに対して、大乗経典は他者ゆあ社会との関係性を重視し、みんなを救うという思想内容が展開されていることが多いです。

大乗仏教では経典への信仰が生まれました。初期の大乗仏教では現在他方仏や空が重視されます。現在他方仏とは今現在ブッダは別の世界にいて説法をしているという考え方で、空とは縁起の考え方を徹底させてこの世の実在性はすべて空であるという、般若経で展開される重要概念です。

中期の大乗仏教では、仏性・如来蔵・唯識です。仏性や如来蔵はすべての人がブッダ、つまり悟った人になれる可能性があるという考え方です。唯識とは空を発展させた世界の認識方法で、一種の唯心論です。

後期の大乗仏教は密教です。ヒンドゥー教的要素を取り入れて、ホーマ(護摩)をたいたり、マントラ(真言)を唱えたりすることが大事だとみなされるようになっていきました。

お経の具体例三つ

ブッダの言行集のうち、最も古いものに属するとされるスッタニパータ、ブッダ臨終の際の様子を記した涅槃経、阿弥陀仏による救いを確信し、念仏を行うようにすすめる阿弥陀経などのお経がここでは取り上げられています。

お経の中での対比1 部派仏教VS大乗仏教

一つは部派仏教と大乗仏教を対比させることができます。部派仏教は権威主義的で教条主義的に陥ってしまう部派が多かったのに加え、女性蔑視なども民間の影響から行っていました。初期仏教での悟りの意味を限定的に捉えて、一人で悟ることができるような修行法を各人が行うべきであるとする個人主義などを特徴とします。大乗仏教では衆生救済、すなわち生きているものすべてが救われる思想が展開されました。そしてどんな人間でも悟りを開く可能性があるとされました。菩薩という修行者が他の存在への気遣いを行い、悟りへ導きます。

お経の中での対比2 智慧と慈悲

智慧と慈悲も対比させることができるでしょう。まず悟りに至る智慧を身につける必要があります。その智慧を身につけた後に実践するべきなのが慈悲です。慈悲とは苦を共感して、苦を取り除く活動全体をさします。実際この二つは対立するわけではなく、相互補完的な仏教の二大概念となります。どちらが欠けても本来はよくないものとされます。

お経の中での対比3 無明と悟り

無明と悟りは対立する対比として存在しています。無明とは世界の根本原理に対する無知のことでして、仏教の灯火が全くない状態を指します。この無明から様々な段階を経て苦が生まれる、と仏教は考えます。
悟りは仏教の大きな目標地点です。涅槃(ニルバーナ)の境地にいて、苦が全く滅ぼし尽くされた状態のことを指します。仏法を知らない状態を無明、仏法を知り最終段階に至ったものが悟り、といってもいいです。

お経の中の因果関係1 無明から苦

今上で述べた無明の状態があるから苦(自分の思いどおりにならない状態)が生まれます。この因果関係の背後にあるのが縁起です。縁起はそれぞれのものの相互関係が世界を覆っていることも同時に示します。

お経の中の因果関係2 偽りの認識からあるがままの世界

人間生来の傾向から生じる偽りの認識があると仏教では考えます。仏法を知ることでその偽りの認識から真実のあるがままの世界を体験できるようになると言います。

お経の中の因果関係3 衆生から仏性をもつ存在へ

衆生は悟ってない人たちのことです。大乗仏教では衆生は仏性を持つ存在だとされます。悟りの可能性がない暗い存在から悟りの可能性があり、いつでも悟ることができる存在への変化は仏教でしかなしえません。

お経の本質

このようにお経とは苦しみを抜け出す方法を示すものである、ということがいえるでしょう。なぜそうなるかといえば、仏教自体が苦を抜け出すための方法が目的とされるのであって、お経はその教えが詰め込まれたものだからです。初期仏教、部派仏教、大乗仏教と時代などは違えど、やはり似たような考えにいきつくのです。
以上、今回は『お経で読む仏教』の主に第1章のマクロダイジェストを示しました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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