①東洋精神の邂逅と融合-聖徳太子の十七条憲法一条を理解するための三つのポイント

どうも哲学エバンジェリスト高橋 聡です。今日は聖徳太子の十七条憲法のメッセージで一番大事な一条について考えていきます。早速原文を見ていきましょう。
十七条憲法の原文と現代語訳

(原文)
一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
現代語訳を試みてみましょう。
(現代語訳)
一条。和の実現を良いことだと捉え、物事の道理に逆行しないことを中心に行動しなさい。人は皆偏っていて悪事を隠しあうように助ける傾向があり、また物事に通じている人は少ない。
だからリーダーや上司に従わず、隣のグループの人とは行き違いばかりしているのだ。けれども、上の立場の人が和の実現を目指し、下の立場の人が一致・協力して、言うべきことを言うべきところで言い、逆に言うべきでないことを語らなければ、それだけで万事はうまくいく。
何事も成就できないことはない。
解説1 「和」について

仏教、儒学、道学に通じたと考えられる聖徳太子。彼は「和」という言葉を大変重視します。
仏教での「和」
お釈迦様の教えである仏教ではサンガ(僧伽)という出家者集団が特に重視する概念が「和合」です。和合とは、一般には「仲良く睦まじい」関係のことですが、仏教では特に平和と一致の状態をさします。慈悲にしろ、智慧にしろ、この和合なくして仏教の基礎概念は成り立たない、というくらい大事な人間関係を指す言葉なのです。
儒教での「和」
孔子の教えである儒学(儒教)でも「君子は和して同ぜず」と言います。つまり立派な人は他人と調和して協力して行動するが、他人に合わせるばかりで媚びたり流されたりすることは決してないということです。和は君子が持つべき徳分の一つと考えられています。
道教での「和」
さらに老荘思想ともいわれる道学(道教)でも、物事や自然の道理に逆らわず、平和と調和を大切にします。三つの教えの一番大事な部分は「和」
このように仏教、儒学、道学という東洋三大思想で最も重視される概念の共通点は「和」であることに気づいたのがわが日本の聖徳太子です。解説2 党派をつくってはいけない

他にも「人皆有党(人皆たむろあり)」と言うような言葉がありますが、論語にある
君子は矜(きょう)にして争わず、群(ぐん)して党(とう)せず
(現代語訳:立派な人は堂々としていて人と争うところがない。そして人々に交わってその意見を聞くが、決して特定のグループだけをひいきすることはない)
という言葉の影響を受けています。
すべての人が持っている傾向としての党派性
けれども、この文章は「人皆有党」と言っているので、君子に見える人ですら今を生きる人は皆、特定のグループをひいきする傾向にあると太子は断言しています。つまり太子は現実的にはすべての人にマイナスの傾向があるので気を付けないといけないことを知っていた現実主義者です。解説3 末法思想の影響

もちろん、思想上は隋唐代に叫ばれた末法思想の影響を見ることができるかもしれません。末法思想では人間性が落ちると信じられていましたから。だからこそ太子は法華経などを論じながら晩年は念仏に傾いた可能性が高いかもしれません。ここではこの問題については論じませんが、いずれ話をしたいと思います。
まとめ

これは現代にも通じる良い手法だと思います。それぞれ思想には良いところと悪いところがあると言っても差し支えがありませんが、良いところをうまく引き出し、悪いところを遠ざける方策をとるのは悪いことでは決してありません。現代の日本の政治家にしろ、ぼくたち国民にしろ外に学ぶ側面がなさすぎるのではないでしょうか。だからこそ、哲学にしろ、政治思想や経済思想にしろ外のものをもっと知るべきなのです。
(参考)以前のコメントの一部から引用
僕のコメントをちょっとだけ改良して載せておきます。和をもって貴きとなす、という聖徳太子の言葉があります。このことばを批判する人はいますが、だいたい批判する人は集団においては党(たむろ)する人、つまり派閥を作って組織の運営、スムーズに行かなくする人が多く、個人にあってはワガママな人が多いと思います。
言うべきところはしかるべき場所で言い、言うべきでないところは無記(語らず)が大人のあり方ではないでしょうか。
創造の場に必要なのは、批評ではなく、個人の作り上げる意志と行動、そしてその二つがあったうえでの個人間の一致と協力にあると僕は思います。本当の和とはこういうものと関わるものです。そう考えると日本の古い名前「大和」とは、大いなる和ということですから、大和に住む人々の一致と協力と関係します。