人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

善悪と正不正、自己分析と哲学、宗教についてーある人に当てたコメント

 
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〇善悪と正不正について

まずちょっと気になったのが、良い就職活動と悪い就職活動、正しい自己分析と間違った自己分析、ここが曖昧過ぎるかなという点です。

例えば特定の企業が求めている特性、性質などに合致した就職活動が良い就職活動だとしましょう。その特性や性質が不変のものならば話はこれで楽なのですが、実際は会社に入って、特性が変化することなどもあり得ますよね。そうなると本当に企業の役に立つと思われていた人材がダメになることも、逆にあんまり社風などにも合致しないと思われていた人材が変化して役に立つことも大いに考えられるでしょう。例えば就活プラットフォームを作っているR社という会社があるとしましょう。R社は独立志向があり、かつリーダーシップの取れる人材を求めています。自己分析ツールで独立志向があり、リーダーシップもあると判断されたが頑固なA君と、従属気質があり、特にリーダー経験などもないが柔軟性があると判断されたB君が応募しました。両者は採用され、A君は期待の新人でしたが、頑固ゆえに上司と折り合いが取れず、やる気をなくしていきました。B君は最初受け身でしたが、柔軟性ゆえに社風に順応し、率先して物事をやるようになりました。10年後、A君は相変わらず会社に残り上司との折り合いがうまくいかないでいます。B君は独立など考えもしませんでしたが、会社のみんなからの勧めもあり、就活に関連するソフトウェア会社を立ち上げました。もちろんこれは仮定の話です。ですが、この場合、時期によって良い/悪い就職活動だったとの判断は変わってきます。良い/悪い就職活動が会社の利益に貢献するとしましょう。そうすると先ほどの例のB君は独立してしまったのですから、悪い就職活動になってしまいます。A君のほうが会社には残っていますから、良い就職活動にはなりますよね。今度は会社の社会的ミッションや責務などとの関わりで良い/悪い就職活動を定義したら、次、A君は悪い、B君は良いになりますね(R社は独立する人材を応援する会社ですから)。

同じことは正しい自己分析と間違った自己分析ということについても言えます。正しいと間違ったという評価は、何を軸に取るかによって一転してしまうことがあります。

ぼくはここで良し悪しや正不正の判断基準を決めろと求めているわけではありません。そうではなく、良し悪しや正不正というのは、ニーチェも指摘していることですが、結局のところ昔からの社会の習慣などから個人が勝手に決めていることにすぎないのです。本当は就職活動に良し悪しもなく、自己分析の用い方に正不正もないのではないか、とぼくは思うのです。就職活動自体を否定するのではなく、それを機会にどう自分が行動し、成長できるか、自分の未来や社会への貢献など、人によって軸は違うとは思いますが、就職活動、就職先企業がその軸とどう合致するのか。そちらのほうが大事だ、と少なくとも僕は思います。自己分析によって得られた特性で企業を選ぶのもまたその人の自由ですが、ぼくならそんなことよりももっと主体性をもって仮に特性が不適格でも、やりたいことと関係する企業や仕事を選びたいですね。

実存主義的な視点から話を進めてきましたが、自己分析自体についてと自己分析と哲学との関係について、あんまり考えていないので、今の話を横に置いて話を進めたいと思います。

 

〇自己分析とは何か

さりとて現在の自己分析とは何か。それは、「私が自己分析ツールを用いて自分自身の特性を分析し評価すること」であると言えるでしょう。同語反復的ですが、ここではとりあえずおいておきましょう。ここで主体は「私」です。さてこの「私」自身を分析評価するのが自己分析だというわけですが、この用い方はどうなるでしょう。通常自己分析では統計学などを用いて客観化された自分の性質、特性を示してくれます。この結果をどう用いるかについては、人によって振れ幅が大変あると考えられます。例えば、自分の特性をそのまま生かして就活に役立てようとする人もいれば、あまりよくない特性を改善しようとして努力する人もいるかもしれません。その結果の用い方はその人次第ということです。主体は私ですが、その私の解釈のブレをツール側に責任を求められるでしょうか?結局道具にしろ、プラットフォームにしろ使う人の倫理観などによって変わってくるのです。

プラットフォームについて考えましょう。VisualStudioというPCの開発プラットフォームがあります。このVSを使えば、Windowsアプリケーション、iOSアプリ、Androidアプリなど様々なアプリをつくることができます。でも重要なのはそれじゃないんです。VSをプログラミングの練習や学習に使う人もいれば、自社向け管理ソフトを作る人もいれば、他社向け製品ソフトを作る人もいれば、さらにはマルウェア、つまりウイルスやスパイウェアなどをつくる人もいます。問われるのは人間が何をつくるかの問題なのです。どんなにその人の特性や長所短所を的確にとらえ、その人に自己反省を促すような就活生向け自己分析プラットフォームを作ったとしても、人間側の問題が解決できなければ就職活動の質が向上することはないでしょう。その点でもっと根源的な問題、教育・しつけ・日本の社会の価値観・組織内の子供の位置付け等々が見えてくる気がします。

 

〇自己分析と哲学について

自己分析と哲学について。まず共通点を挙げるとすると、哲学とは「自己自身を含めたあらゆる物事の本質をつかむ」ということと関係してきますから、哲学も自己分析もどちらも自分と向き合う機会になりうると思います。もちろん哲学の種類によってはその限りではないですが。

相違点についていえば、他人の意見やデータなども参照にするが、とはいえ最後に自分自身で理論的に結論を出すのが哲学、自己分析は結果を見て行う自己反省。といったところでしょうか。

自己分析は哲学に役立つことはあると思います。

逆に哲学が自己分析に役立つことはほとんどないとは思いますが、、、

 

〇おまけ―宗教とは何か

宗教とは何か。という文言が出ていたので書きますね^^ぼくの中でもこの問題はいつも考えている問題です。いろいろ学んだり調べてきたりした結果では、客観的、定義的には次のように言うのが正解です。

宗教とは「信じることに関する言語ゲームであり、家族的類似性を持つ、ゆるやかな言語連合である」。言語ゲームや家族的類似性とはウィトゲンシュタインの用語です。ゲームという言葉を考えてみてください。サッカー、バスケ、ドラクエ、FF、野球、椅子取りゲーム、卓球、ゴルフ等々。具体例はいくらでも浮かび上がると思います。これらの共通点はというと?遊ぶことと関係すること?いえ違います。なぜならプロ野球選手やプロサッカー選手は遊びではないでしょう。では試合があること?違います。椅子取りゲームやドラクエに試合がありますか。…と掘り下げて考えていくと、共通点は結局、英語で言うplayに関係する緩やかな言語の連合なのです。これを次のように言うことができます。ゲームとは「Playに関する言語ゲームであり、家族的類似性を持つ、ゆるやかな言語連合である」と。家族的類似性とは具体例で挙げた椅子取りゲームとFFとゴルフは全然違うゲームですが、かといってゲームではない、と言い切ることができません。つまり具体例であげたゲームはどれもゲームという家族なのです。これを家族的類似性と言います。

宗教に関していえば、神道、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、儒教、道教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、ブードゥー教、ドルイド教等々。様々なものがあります。信仰と信じることとは近いですが、違うものです。例えば敬虔な信仰を持つキリスト教徒にとって日本人が初詣で神社に行き、厄除けに寺に行き、クリスマスをお祝いすることについて、この態度をとても信仰ある態度ということなどできないでしょう。ですが、全く信じていないともいえないのです。

「信じる」ことが宗教の核だとわかっても、次の問題が出ますね。

すなわち、「信じるとは何か?」という新たな問いが。実は宗教とは何かの問題よりこちらのほうが難しいです。一度考えてみると面白さと同時に難しさもわかると思います^^

もちろん、宗教が私にとってどういうなんの意味があるだろう。などの主観的な問いには上に挙げたことでは何も解決にはなりはしませんが。考え続けることって大事ですね!

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