自由があなたをつよくする
2017/06/23
偉大とは方向を与えることだ。どんな大河も多くの支流を迎えることによって河を大きくする。精神の偉大さもそれと同じだ。多くのものが流れ込む方向を与えることが問題なのであって、天分が貧しいとか豊かだということは問題ではない。
ニーチェ
どうも、哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。今日は自由について考えます。自由こそ、近代以降の民主主義国家の最大の特徴だと言えます。自由とはなんでしょうか?簡単にいうと、自らに由るということです。あなた自身が動くことによって自由が生まれるのです。では各論を見ていきましょう。
歴史的自由
自由という理念はアメリカ人の自己意識において最も重要なものです。アメリカ独立宣言では自由は人類の譲り渡すことのできない権利とされています。このアメリカ人があげる4つの自由があります。
- 政治的自由
- 経済的自由
- 市民的自由
- 精神的自由
とはいえ、自由の国と標榜されるアメリカでさえ、自由は奪われることが多かったのです。奪われた自由を取り戻すための戦い、それがアメリカ独立戦争であり、南北戦争であり、女性投票権闘争であり、公民権運動なのです。
概して束縛されていた権利を束縛から解き放ち、権利を取り戻すことこそ、自由という言葉の歴史的意味です。哲学的自由
哲学的な自由といってもさまざまな論者がいます。今日は近代哲学においてもっとも意味あることをいったカントとヘーゲルの「自由」の概念を考えましょう。カントの自由
カントの「自由」を考えるには、カントの世界認識を知る必要があります。
カントは言います。人間が何かを対象に観察する際、その物を直接見ているわけではありません。われわれは、物の現象を見ているのに過ぎないのです。物本来の姿を物自体というのに対し、我々が見ているものを現象と呼びます。また物自体の世界を英知界、現象の世界を現象界と呼びます。このうち、現象界は因果法則に支配される世界です。
人間はこの両方の世界の間に立つ存在です。因果法則が支配する世界では、通常因果律によって全ての物事の道筋が決められています。そういう意味で自然の動物や植物には自由はないんです。
でも英知的存在たる人間は意志を持ちます。現象界では世界が生まれて以来、人間以外には因果の鎖を断ち切ったものはいない。だが人間だけが自由を持つから、因果律の起点となる行為をなすことができるというんです。
この議論はカントの第三アンチノミーの議論を簡単に要約したものです。
自由を持つからこそ人間は行動に責任を伴います。自由とは日本語を分解した通り、みずからによる、という意味になります。ただ自分だけが因果の出発点としてある、ということです。責任を伴うということは、そこに道徳論、倫理学が成立する余地があります。この自由と責任と道徳を深く考察したのがカントの『実践理性批判』です。
ヘーゲルの自由
対してヘーゲルの自由はどういうものでしょうか。ヘーゲルはフランス革命を考察して次のようなことを言っています。「自由は理性による認識の成果を、歴史の中で現実化する力であることができる」と。カントが理性と自由はひと組みのセットであると言ったのと同様に、ヘーゲルも理性と自由はセットであり、理性は自由なしには現実にありえないし、自由は理性なくしてありえないというのです。(『精神現象学』Cー5ーB理性的自己意識の自己自身による実現 参照)ヘーゲルによると、世界史とは精神の自覚の過程であると言えます。自覚とは「他者のうちに自己自身を見る」ということです。精神が他者のうちに自己自身を見る過程とは、つまるところ精神が労働を介して他者の中にある自己自身性を獲得する過程です。ここに他者性は単に切り捨てられるわけではなく、弁証法的に昇華されています。
ところで労働とはなんでしょうか。ヘーゲルにおいて想定されている労働とは、他者と協業して自己自身性を手に入れることです。換言すると、労働とは、自分が他者と協力して行動して、自分の夢や目標を実現することなんです。これこそ自由の本質ではないでしょうか。
まとめ
カントにせよ、ヘーゲルにせよ、どちらの自由も積極的な意味合いを持ちます。特に自分が行動して目標を成し遂げるという積極性を与えたのはヘーゲルでした。カントにおいても因果の出発点としてあり、道徳の基礎となることから自由にはかなりの積極性が与えられたのはまちがいありません。これらは歴史的自由の項目で考えた4つの自由となんら異なるものではありません。これらの自由も結局、自分の行動が制限されないという意味ですから、あなた自身の積極的に行動しようとする姿勢が大事なのには違いありません。