ニーチェの哲学の魅力を伝えます

ニーチェマニア!

自由という概念についての一論考

 
この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。

どうも、哲学エバンジェリスト高橋 聡です。今日は自由について考えましょう。

唐突ですが、自由とは何かについて最近常に考えています。あなたは自由について、どうイメージし、どう感じ、どう使っていますか?

ぼくが現段階で出した答えは次の通りです。「自由とは、無限の選択肢の中から自らが選択し、その選択した選択肢に対して、責任を取って行動すること」である、と。

カント以降の代表的な哲学者の考えをまとめておきましょう。

カントにとって、自由とは、自律と同義でした。『純粋理性批判』の第三アンチノミーとして登場する「因果律と自由は両立するか」という問題に対して、カントは次のように考えました。現象界ではすべての物事は因果律に支配されており、そこに絶対原因たる自由は存在しない。ところが人間だけは英知的存在であり、その英知的活動によって絶対原因である自由を発現することができる。だから因果律と自由とが同時に存在するのが矛盾であると考えるのは、仮象矛盾であり、実際は因果律が存在するという命題と、自由が存在するという命題の両方が真なのである。つまり、現象界では因果律が、英知界では自由があるというだけで、それぞれの領域ではどちらも真なのです。

この第三アンチノミーの解決策から、『実践理性批判』の道徳の根本命題「君が意志を決定する際に、常に次のルールを守るようにしなさい。いつも同時に普遍的な法律を作る際の原理となるように行為しなさい」が出てくるのです。カントがここでいう意志とは自由意志とのことです。自由に選択できる場面において、普遍的な法律を作る原理となるように行為する。言い換えれば、たとえ周りが間違った行動をとっていても、あなたは人類にとって間違った選択をせず、正しい選択をせよ、と言っているのです。

この道徳の根本命題は、定言命法と仮言命法についてカントが正しいと言っている意見とほぼ同じです。長くなるのでここでは省略しますが、条件付きの命題である仮言命法は他律的だからそれを避け、自律的な定言命法から行動原則を選べ、というのです。

そしてこの自律、つまり自分で物事を選択し、その際に自分に伴うすべての責任を取ることがカントの言う自由なのです。

ヘーゲルはどうでしょうか。彼は自由とは「自覚」だ、と言います。ヘーゲル初期の主著『精神現象学』において、精神は様々な段階を経て発展するとヘーゲルは結論づけていますが、精神が発展する際に大事なのが「知る」という行為であり、この「知る」という行為が自分で主体的になされることを特に「自覚」というのです。ヘーゲルのいう自覚は、知った以上倫理としてあらわれてくるようなものも含みます。具体例を挙げると、物を所有するということ(テーゼ)と、他人の所有物に対する盗みが存在すること(アンチテーゼ)という矛盾の解決策はなんでしょうか。その解決策は、最初に所有した人の所有権を正義(正しいこと)として確定させ、盗みを不正義(だめなこと)として扱うことです。そうする解決策をとることで、ヘーゲルは少なくとも発展すると考えたのです。この解決策を人として、あるいは社会として知った(自覚した)以上、それに従わないといけないのです。そうすると、自覚だとはいえ、責任もやはり伴うことになります。

ニーチェはどうでしょう。ニーチェは自由意志をスピノザと同じく否定します。ニーチェの永遠回帰という概念には自由というものなどないことを主張しているようにも見えます。でも、ニーチェは人が自由と感じること自体は否定していません。畜群として生きている以上、周りの状況に合わせたり、人に従ったりすることしかできない窮屈感が出るでしょう。ところが一つの徳を実践する理想的な超人は、他人の見方などを全く気にせず、自由に生きている感じが伝わってくるのです。ニーチェはわがまま勝手に人を振り回すことも含めて強者の強さを考えてはいたと思います。仮にニーチェが自由を肯定するとしても、わがままでもよいが、自分の取った行動は100%の力でやれ、といいそうですね。

ハイデガーはどう考えるでしょう。主著『存在と時間』の中で自由について直接論じることはしません。ハイデガーの哲学のキーポイントは死の自覚と先駆的決意です。この二つに全く気付いていない人間がダスマン(ただの人、世人)、この二つに気づいている人間がダーザイン(現存在、存在そのもの)として生きるのです。ダスマンはつまらないことに気を取られ、おしゃべりして過ごしている(頽廃した)人間です。対してダーザインとして生きる人間は、倫理というものに目覚めるというようなことをハイデガーはいっています。新しい倫理に目覚めた人間は、周りのことに煩うことなくそれこそ自由に生きるのです。気づいた以上は責任を取って行動する人間となるくらいのものでしょう。

ここまで見てきて、はじめ言ったことに戻りましょう。「自由とは、無限の選択肢の中から自らが選択し、その選択した選択肢に対して、責任を取って行動すること」である。この定義はきわめてカント的に感じるかもしれません。ぼくがいくら考えても、自由はカント的な結論しか出せない、というのが実の結論です。

例えば世界中のあらゆる現象、事実、環境のすべての原因が私自身にある、します。私自身がすべての原因であるわけですから、結果を変えるには私が行動しなければならないことになるでしょう。これはある意味究極の自由です。そしてその自由に基づいて行動することで世界の結果を変えてしまうわけですから、責任もすべて自分が取ることになります。

逆に世界のすべての現象等に、私が一切かかわっていないし、かかわっても何も変わらないとしましょう。この場合、自由はありません。何をやっても変化しない。そうすると、責任もありません。

ぼくは実はすべての原因が自分自身にあると思って生きたほうが楽だと思っています。どうにもならないこともあるかもしれないが、そう思って生きるより悪いこともどうにかなると考えて生きたほうが、積極的に人生を生きることができるし、自由も感じられます。自分が責任を取って行動できます。

ここまで考えてきて最後に言いたいこと。

少なくとも、あなたがどんな環境におかれようとも、あなたの人生の主役はあなた自身であり、あなたの人生は自由です。でも自由な立場として特定の選択肢を選んだ以上、責任が伴うのもまた避けられないことです。でもこの責任は重荷では一切ありません。

この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Copyright© ニーチェマニア! , 2019 All Rights Reserved.