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諸行無常のメッセージ性|仏教用語のメッセージ解説

2021/05/13
 
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どうもこんばんは、たかはしさとしです。今日は岸和田にいってまいりました。久々に昔働いていた場所に行くと、なつかしさでいっぱいですね。岸和田のパソコン工房を覗いていたら、SSDが安かったのでつい買っちゃいました。

前回の記事|ブッダの伝えたかったこと

さて前回の記事について少しみていきましょう。前回は、仏陀の伝えたかったことを少し考えました。以下にリンクを貼っておきます。

まだお読みでない方、興味のある方は読んでみてくださいね。

諸行無常とは

今日は諸行無常のメッセージについて考えたいと思います。まず諸行無常とは、倫理の用語集によると、次のような表現がなされています(一部抜粋)。

一切の現象や行いは絶えず流転し続け、常なるものはないということ。(『用語集 倫理』清水書院)

文字通り、すべての存在するものは、常なるものがないということの説明ですね。大事なのはすべての現象は変化し続けるという点です。

インド哲学へのアンチテーゼ

ブッダ、仏教の生まれる200年ほど前、インドではウパニシャッドという考え方がインド哲学の主流となりました。ウパニシャッドで特に説かれたのが、梵我一如という考え方です。この梵我一如とは、世界の根本原理たるブラフマンと自分の存在原理たるアートマンが一致するという考え方です。諸行無常は直接的にはこの梵我一如へのアンチテーゼという側面が大きいです。

梵我一如の梵も我もどちらも不変の実体で常に変わることがないと考えられていました。ブッダはそれをよしとしませんでした。世界の実相を見て、常に変わらない実体などありはしない、と考えたのです。その表現の一つが諸行無常です。

諸行無常の二つのとらえ方

諸行無常には二つの受け止められ方があると思います。まず一つ、世界は諸行無常だから、世界に視点を合わせている人は不変の事実がないことに驚き、むなしさを感じてしまいます。

一方もう一つは、世界は諸行無常だからこそ、自分に視点を合わせている人は世界の変化を刻一刻と見つめて、自分も常に変わり続けるのが最善だと考えるのです。

ぼくは後者のほうに力点を置きたいと思う人間です。だから、ブッダが諸行無常を説いたメッセージの核心も後者のとらえ方にあると考えます。

諸行無常のメッセージ

世界は常に変化し続ける。歴史を見れば、今を生きる人にとってその時代は常に激変の時代でした。だからこそ、不変の実体があるなどという夢うつつな考え方をブッダは斥けたのです。

諸行無常とは、ニーチェのいう積極的なニヒリズムと大変近いものです。世界は諸行無常だからこそ、人間は変化し続けないといけないのです。そして人間にとって変化し続けることは、過去や今に固執する人にとっては大変エネルギーがいることなのです。悟りとはそういった固執、プライドを手放すことから始まります。執着を手放すことが大事だと言われるゆえんはそこです。ブッダも人間ですから、悟った後も悲しみも苦しみも喜びも楽しみも感じたに違いありません。しかしブッダはそうした感情にせよ、自分のプライドなどもすべてすぐに手放すことができたため、それらに振り回されることがなくなったのです。

こうしたすべてを手放すことができるというのは、簡単にできることではもちろんないでしょう。まずひとつは今に集中している必要があります。そして、すべての出来事をありのままに受け入れることも必要になってきます。

つまり諸行無常のメッセージとは、世界は変化し続けることを徹底的に思い知り、自分もその変化に応じて行動すること、さらに今を全力で集中して生き抜き、ありのままに出来事を受け入れるということです。

以上、今日は諸行無常のメッセージ性について考えました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

たかはしさとししるす

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