人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

キルケゴールとの対峙2|不安

 
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どうもこんばんは、たかはしさとしです。寒波がやってきて数日、凍えるほど寒くなってきました。寒いと冬の北海道を思い出します。もっとも大阪の寒さは北海道に比べたら本当にたいしたことです。

前回の記事

前回はぼくの哲学との出会いとキルケゴールとの対峙について語りました。今回はその続きです。

まだ読んでいない方はぜひ読んでみてくださいね。

不安

キルケゴールによると不安とは、人間が自由であることから生じる感情のことです。人間とは可能性を自由に選択し、自らを主体的に形成していく存在なのです。ところが自由に選択することには、なんの根拠もないわけです。可能性はまだ実現していないので無でしかないのです。自由の無に対して抱く感情が不安と呼びます。

『不安の概念』において、キルケゴールは自由の無を引き受けて、自らで責任を取り、可能性を選択しないといけないといいます。

たかはしさとしの考える不安と自由

この不安に関するキルケゴールの考察、ぼくは大好きです。まず人間とは根源的に自由な存在なのです。どんなことも自由に選択することが理論上は可能です。つまり自由とはどんな可能性もあるという状態のことです。そんな可能性を選択するとき、自由に選択しますよね。でも結局自由に選択したところで、その選択の理由や根拠はどこまでもさかのぼれば答えることなどできません。つまり自由な選択は無根拠にならざるをえません。

こうイメージしてください。自由はどんな形にもなれるスライムのようなものだけど、実際土台はとても不安定だと思えばいいでしょう。

可能性が実現すれば現実性へと転化します。ところが自由に選ぶ段階では何一つ未来が確証されているわけではないですから、結局のところ、可能性は無そのものです。これがキルケゴールのいう自由の無です。

自由の無、あるいは可能性の無というものから不安が生じるんですね。でも考えてみてくださいよ。これは構造的に人間が自由な存在である限り、必然的に生じる感情なのですよね。つまり不安のあるところには常に自由があるということなんですね。

不安という感情への付き合い方は次の方法がベストだとぼくは思います。不安を感じたら、そこには自由・可能性の無がある。つまり可能性が無限にあるため、ほんとうに不安定な土台にあるということです。その状態が本来的な自由なんです。だからこそ、ぼくらは不安から逃れるのではなくて、自由の無を引き受けて責任を取って行動しないといけません。

不安はステップアップのシグナルなんですね。自分が飛躍するチャンスだといってもいいでしょう。不安をただ不安としてとらえるか、それとも希望としてとらえ返すかで、だいぶ未来が変わってくるわけです。

責任を取ってこう進むんだ、と決断して自由を無に帰せず、有に変換することが人生にとっては大事だ、とキルケゴールは考えるんですね。ぼくもそのとおりだと思います。だから不安を感じたら、責任取ってどう決断するかが問題になります。

責任とは自分が感じた時に使うものなのです。不安に対して自由と責任ある決断こそ、最高の処方箋となるのです。

だからこう考えましょう。不安を感じるときもある。でも不安はマイナスな要素だけじゃなくて、自己飛躍の可能性をひめたとても素晴らしい感情なんだ、だからそのシグナルを見逃すな、ということです。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

たかはしさとししるす


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