人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

仏教と自己を見つめなおす考察

2021/05/13
 
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哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
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どうも、おはようございます。たかはしさとしです。今日は所属するオンラインサロンでnoteもくもく会の第二回が開催されており、そちらに参加させていただきました。ぼくは下準備などほとんどせず、テーマだけなんとなく決めて参加させていただいております。55分で書き上げる、っていう時間の感覚があまりわからなかったので、はじめて時間を意識してnoteを書くのでとても楽しみです。

仏教が好きな私

今日のテーマは「仏教と自己の発見」です。これまたnoteでの自己紹介ではあまり言ってこなかったことなのですが、ぼくは実は仏教が大好きなんですね。ブッダと彼の弟子たちの対話はまさに現代でいうコーチングの技術に通じていますし、瞑想や空観というものはマインドフルネスに通じます。仏教ではしばしば悟りが第一目標だということが言われてきました。たしかにこれは全く正しいし、これを否定することはできないと思います。だから明治期以後の日本ではしばしば伝統的な仏教宗派が形式的な葬式仏教に陥ったことを嘆く論調が多く、本当に必要なのは悟りについて考え、実際に悟りを体験することだ、と指摘するものがとても多いのですね。

仏の意味

仏教っていうのはお釈迦様(釈迦/釈尊/ブッダ、以下「釈尊」と呼ぶ)が創始者です。釈尊の教えそのものと、その教えをベースにしてちょこちょこその時代の弟子たちが教えをアレンジしていったのが実際の仏教です。ブッダとは、インドの言葉で「悟った人」という意味です。釈尊がブッダとなり、中国に仏教が渡って経典に出てくるブッダが仏陀と音訳され、中国や日本ではそれが(ぶつ、ほとけ)と略されて呼ばれたのでした。

悟りの前提条件

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name=”ce0Ub”>この仏教の目標は「悟り」であることは話しました。悟りって何か、っていう話は後々noteでもしますが、ぼくはさまざまな仏典を読んだ結果、悟りとは「心が安定して落ち着いていること」といえると思っています。

その悟りを得るには実は前提条件があります。それはまさしくタイトルに挙げた自己を見つめなおすことです。自己を見つめなおすとは、自己を発見することだとも言えます。どういうことか。釈尊の例を取り上げて、説明してみましょう。

釈尊が見つめなおした自己

釈尊は今のネパールのあたりに住んでいたシャーキャ族の王子として生まれました。釈尊の母親と伝えられるマーヤ夫人は釈尊を生んですぐになくなりました。そんな釈尊ですが、何不自由なく育ったといわれています。王子として育って結婚もして子どももいた釈尊でしたが、29歳で世の中に苦しみが満ち溢れており、そこから脱出する方法はないかと考え、出家してしまいます。釈尊の第一の転換期、自己の見つめなおしはこのときだとぼくは考えます。

王子として生まれ、何不自由なく育ったところで、病気や老いること、死ぬことといった生きることにつきまとう思い通りにならない苦しみを避けることなどできないではないか。そういうことを知って、自分は何ができるだろう。一時しのぎ、対処療法にすぎない世の中の教えではなく、自分自身で苦しみへの根本療法となる真の教えを得ることはできないだろうか。

釈尊はこう考えたんじゃないかな、と私は想像しています。自己が何をできるのか、何を成し遂げたいかを考えて出家したんだとぼくは考えます。

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name=”ySkY6″>出家してから6年間、35歳になるまで苦行の生活を送りました。当時のインドではがりがりに痩せる断食修行や、水の中に入ったりする水行、火の上を歩いたりする火行なんかが流行っており、釈尊もそういった方法を試してみたのです。あなたも断食修行であばら骨が浮き出る仏像を見たことがあるかもしれません。でも釈尊が出した結論はただ苦しいだけで、こういった苦行をこれ以上やる意味はないということでした。実はぼくは、釈尊の第二の転換期はここにあると考えます。

苦行は私が求める苦しみから脱出する方法ではない。そもそも私は何を求めて出家して修行しているのだろう。どうすれば本当に苦しみから抜け出せるのだろう。

釈尊は悩んだに違いありません。そして悩み続けて瞑想をしたときに、次のことを悟りました。「楽道(ただ安楽や楽しみを求めて生きる生き方)と苦行(身体を苦しめて苦しみに耐え抜く力をつける生き方)ではなく、中道こそ私が求める道だ」。第一の悟りはまさにこれです。これを言い換えると、何事も極端にぶれ過ぎたら、心の平安はないよ、ということです。そういったことを知り、苦行を共にしていた修行仲間に悟りの内容を伝えて、新たな視点から教訓や釈尊なりの心理を発見していったのが仏の教えだ、ということができます。

釈尊はまず第一の転換期で自己を見直しています。第二の転換期で悩みぬき、悟りを開いたのでした。第一の転換期、つまり違和感に気づいたとき、自己を見つめなおし、王子の身分をすてて出家したのです。

自己を見つめなおすまとめ

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name=”IlYPL”>ここまで自己を見つめなおす、自己の発見といったキーワードで語ってきました。これについてぼくなりの解説を加えたいと思います。まず釈尊について言えば、自己を見つめなおそうとして、出家して外側に答えがないかを探し求めたわけです。でも結果的に、そういう答えは見つかりませんでした。だから悩んで瞑想したら、自分の心の内側にしか答えはないと気づいたんです。心の平安の答えは、自己の内側にしかない。端的にいうとそれが悟りなんです。

これってとても素敵なことではないでしょうか。自己の内側にしか答えはないってことは、自分の可能性に気づくってことです。その自分の可能性に気づかずに外側に何か求めても、実際は何も見つからないのです。

釈尊がはじめ伝えたかったのはこのことだとぼくは考えています。自己を見つめて、悩んで、自分本来の可能性に気づく。

釈尊のメッセージは意外とシンプルなのかもしれません。

あなたもぜひ自己を見つめなおすきっかけがあれば、それを無視せずに自分と徹底的に向き合ってみましょう。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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Comment

  1. ※三宅 弘晃(キャリアコンサルタントカメラマン)さん
    本当に本質はそんなに変わらないですよね。仏教も紆余曲折して日本に伝わっているから、わかりづらいところは確かにありますが、2500年も前に簡潔な言葉で人間について語っているのはすごいと思います。ポジティブに生きていきたいですね!
    —–COMMENT:
    ryota_arafukaさん
    日本で触れる仏教は何を言っているかわからないお経、漢語ばかりで近寄りがたいことは確かだと思います。おっしゃられるように、「自分自身と向き合い続ける」ことは仏教でもとても大事な要素です!身近に感じた、と言ってくださってとても嬉しいです!
    —–COMMENT:
    アラシロ タカノリさん
    マインドフルネスは仏教の用語、”正念”(正しく注意深く思いを向ける)の英語の訳語だったんですよ。この”正念”っていうのは、八正道という仏教者が実践する8つの徳目の一つなんですよー。意外なところでつながりがありますよねー。
    —–COMMENT:
    みか(育児・育自コミュニティ運営/ボイストレーナー)さん
    まさしく生活の中で中道を実践しておられますね!素晴らしい。バランスとるのって本当に難しいですよね。ちょっと油断するとすぐどちらかに偏りますよね

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