人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『慈雲尊者の仏法』第6回 人生のまことの楽しみ 小金丸泰仙|書評

2022/02/15
 
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どうもこんばんは、高橋聡です。

今回は『慈雲尊者の仏法』第6回のミクロダイジェストをここに記したいと思います。

第1回のミクロダイジェストからはじまり、6回連続でお届けしたシリーズも今回で終了となります。

振り返りとして前回までのシリーズ記事を載せておきましょう。

それでは早速今回の内容に入りましょう。

第6回の主要な問いと答え

第6回ではずばり、どのような問いが発せられていて、どのような答えが返されているでしょうか。

私が感じ取った問いは次の通りです。

Q.人間にとって究極の「生きる楽しみ」とは何か?

それに対して答えはどのようなものでしょう。

A.在家者においては、自分の職業の仕事を専一にこなして、理(ことわり)を感じることが生きる楽しみである。

出家者においては、自性解脱つまりすべてが真実を現わしていることを会得することが生きる真の楽しみである。

三昧の状態

在家者にとっても、出家者にとっても、どちらにも共通する人の状態があります。

それはずばり三昧(ざんまい)の感覚です。三昧とは現代の心理学用語でいうフローとかゾーンと呼ばれる状態のことです。

三昧とは、そのものごとに集中しているあまりに、周りと比べて時間間隔が変容してしまう体験のことを指します。

味わっていることさえ忘れ去ってしまうような三昧の体験ってどんなものでしょうか。

読者のあなたも楽しすぎて一瞬だと思っていたのに、2時間経過していた出来事などのご経験があることでしょう。

こうした状態を三昧と呼びます。

在家者においては自分のなすべき仕事において三昧が発揮できる状態が最も楽しい状態です。

出家者においては修行において自然と私、すべてが真実を現わしている、と気づくことが最も楽しい状態だ、と慈雲尊者は説くのです。

在家では農業こそ自然と融和した生き方

慈雲尊者によると、自然の道理とともに生きる農業こそが、自然と最も近いところにある生き方であり、真の楽しみに近い生き方であるといいます。

農業は作業するだけで花が開き、実がなるものではありません。自分が作業を行ったあとは、自然に任せきる部分があります。つまり農業者と自然との協同的な働きかけが農業なのです。

また農業は自然に任せなければならない時間も長いため、農業をしている人は自分を振り返ったりする時間も長くもてる可能性もあります。

在家者にとっては農業が最も自然と近い生き方であり、楽しみに近いというわけですが、慈雲尊者は他の生き方は不幸だと言っているわけでは決してありません。

在家者は自分の職分に応じて、自分の仕事を一心に行い、ほかの遊び事に心を奪われてはならないといいます。

遊び事とは、単に賭け事とか女遊びのようなものだけではなく、農業者が政治について考えて時間をつぶしすぎたり、製造業者が自分の畑が気になって自分の仕事がおろそかになる状態もさします。

つまり遊び事とは、自分の職分に応じたなすべき仕事以外のことすべてを指します。

すべてが法の教えに符合していくことに気づく法の楽しみが至高の楽しみ

慈雲尊者は、出家者の人生の楽しみは自性解脱にある、と言います。

自性解脱とは、この世の存在すべてが法の教えに符合していることに気づくことができる境地のことです。

通常仏教では悟りこそ目指すべき道だ、と言われます。

それは慈雲尊者も否定はしません。むしろ、悟りを追い求めることは生涯かけて行なうのが仏法を歩む人の道だ、ということも認めています。

ところが慈雲尊者は真の悟りとは示寂涅槃ではなく自性解脱だ、という風に言っています。

示寂涅槃とは、煩悩を沈めて平安の境地に入ることです。無執着の境地ともいえるでしょう。

慈雲尊者はこの示寂涅槃の境地は、まだ悟りの初めの一歩だ、と考えているのです。

そして悟りを深めていって生きていくと、自性解脱に至るというわけなんです。

上に記した通り、自性解脱とはすべてが真実を現わしていることに気づくことができるということです。

どんな偽りに見えることのなかにも真実がある。自然の中にも真実がある。

修行になかにも真実があり、在家生活のなかにも真実がある。

これこそが至高の楽しみの境地だ、と慈雲尊者は考えました。

まとめ

貪欲の対象が心にあらわれないなら、楽しみを享受することができます。

一般に貪欲の対象とみられているもの(たとえば金の亡者)が眼前に現れても、それが真実を現わしていると考えることができれば、楽しみを得ることができます。

これは考え方を変えたら見えるものも変わる、ということの表現ではありますが、不快なものから真に楽しいものへと感覚もまた変わっていくことができる、深い境地をこのことばに感じることができます。

まず熱中できることを探せ、とか仕事をしていて集中して楽しめるものを探せ、などということが言われます。

結局熱中できることのなかには、真実が含まれている可能性がある、ということなのかもしれません。

慈雲尊者は熱中できるもののなかで他人に迷惑をかけないものが、楽しみのもとだと考えていました。

「楽しみとは道理の楽しみなり」と慈雲尊者はいいますが、人が自分のなすべきものを見つけたとき、これはまさに道理にほかなりません。

自分の生活を振り返ってみて、上に記されたようなことに当てはまっているか、考えるのもまた良いことでしょう。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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