人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

直接的でわかりやすい表現だけが重視されるこんな世の中で・・・『春秋左伝』の一文から昔の名文の条件を考察したうえで、専門用語の必要性を考える

2021/05/13
 
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どうも、たかはしさとしです。本日は月曜日のため、仕事始めですね。月末は比較的暇で、今日はしかも在宅勤務だったため、めちゃくちゃ忙しいということはありませんでした。自分なりにできることはして、物足りないながらもまあまあ満足できた一日です。気分よく過ごせたことに感謝しています。


とある漢籍の名文

これはnoteでも言ってないし、Facebookにもほとんど書いたことのないことなんですが、ぼくは実は大学時代、文学部にいたんですね。そこで専攻していたのは歴史学でした。具体的にどのような歴史を研究していたかというと、中国の宋代の民衆史なんです。宋代っていつかわからない、って方もいらっしゃるでしょう。日本の歴史でいうと、平安時代末期から鎌倉時代初期のあたりが、北宋と南宋の時代です。専攻の時代は宋代なんですが、実際は春秋・戦国時代から清代まで中国の古典は拾い読みして、いいこと書いてあるあなと思うことがよくあるんです。今日も『春秋左伝』襄公八年を読んでいて、いい文言を見つけたのでぼくの主観を交えて紹介したいと思います。


河の清むを俟たば、人寿幾何ぞ

どう読むのかというと、

河(か)の清(す)むを俟(ま)たば、人寿(じんじゅ)幾何(いくばく)ぞ

と読みます。

意味は僕の訳では次の通りですね。

黄河っていうのは、砂が混じった水が流れるから黄河なのだ。その黄河が澄んできれいな水になるのを待っていたら、人の寿命などすぐに尽きてしまう。だから黄河が澄むのなど待たずに行動するように、状況が見通せない時期でも、なすべきことをなさないといけない


name="MOFp5">随分婉曲的な言い方をしますよね。これは少し考えないと意味がわからない文章ですね。わかりやすさばかり求める今の文章の書き方からは想像できないでしょうけど、中国の昔の文章っていうのは実は「一見してすぐわからずとも、言われてみたら的を得ている比喩使った表現」が名文とされていたんですね。直接的なわかりやすい表現は幼稚で、考えさせることがないから逆に記憶に残らないと当時の人は考えた、とぼくは思っています。

実際そうしたことはあるんじゃないかなと思います。教育的なことを考えたら、読みやすい文章ばかり読んでいても、読みやすい文章しか読めません。ところが昔の難しい文章を読めば、今の読みやすい文章の大意を読み取るのは非常に簡単なことなんです。これは古今東西そのように婉曲的な表現は好まれて使われてきています。聖書でも、哲学書でも、仏典でも、漢籍でも、日本の江戸時代の文章でもそうです。古典を読むべきだ、という人の意見には、このような読みにくい文章をあえて読むことで、読む人は考える力を養うことができるから、というのも一因にあると思います。古典を読めば、深く考えることができる、というのは一理あるでしょう。


メディア論的考察

name="RAlW4">メディア論という学問分野があります。社会学やカルチュアルスタディーズ、行動心理学などを横断した学問分野なんですが、メディア論とはまさに、マスコミやインターネットなども含めたあらゆるメディアについての学問を指します。このメディア論の創始者といわれるカナダの学者マーシャル・マクルーハン(1911-1980)は、彼の主著『グーテンベルクの銀河系』で、グーテンベルクが活版印刷術を発明し、ルターのドイツ語訳聖書などを印刷することで、それまで手でコピーするしかなかった本を、大部数発行することができるようになった。そのことで、世界は大きく変化することになった、と言っています。具体的にいえば、活版印刷によって聖書が大部数刷られたおかげで、一般の人の手に聖書が普及して宗教改革が進みました。同様に古代ギリシャや古代ローマの書物などが大量印刷されることで、一般知識人の手に書物が大量に行き渡ることで、ルネサンスが促進されました。宗教改革とルネサンスというヨーロッパの近代への二大現象は、実は活版印刷術の発明に支えられる形で進展していったのだ、というわけなのです。

じゃあこの活版印刷術の発明を期に、名文は変化したのか、というと実はそうではありません。ルターも、カルヴァンも、エラスムスも、セルバンテスも、ラブレーも、シェイクスピアも、周りくどい言い方をします。哲学者でもデカルトは例外的にわかりやすいですが、スピノザもライプニッツも、ロックもヒュームも、カントもヘーゲルも相変わらずわかりづらい表現をしてくれてます。


name="8cQCg">これが変化する端緒、それは産業革命による時間感覚の変化である、とぼくは考えています。「時は金なり」というアメリカ建国期の思想家ベンジャミン・フランクリンの言葉を引くまでもなく、時間を無駄にしたらだめだ、という意識が人類史に登場しはじめてから、わかりづらい言葉は時間を無駄にするからダメだ、という風に考えられるようになったんじゃないかな、と思います。だから、わかりやすい文章が大事だとされる価値の転換が起きたんですね。時間間隔の変化をきっかけに産業革命期以降の思想家の文章っていうのは、現代人でもだいぶ読みやすくなってきています。イギリスの思想家アダム・スミスやベンサム、J・S・ミルや社会主義の祖カール・マルクスなんかが今でも読みやすいのは時間が大事だと考えていたからなんでしょう、たぶん。この時代以降でも、現象学の祖フッサールや実存哲学者ハイデガーはあいかわらず読みづらい文章を書きます。でもその文章はとても考えさせられるものだし、その誤読からさえも、生産的な議論が生まれたりするから不思議なんですね。

なにはともあれ、鉄道にしろ、車にしろ、飛行機にしろ、それぞれの交通手段の発明は、圧倒的な時間の短縮を生み出しました。同様に時間の短縮のために、読みやすい文章が発明されたのです。


まとめと今の日本の文章

昔の名文は考えさせられる比喩を使って表現されていました。ところが、産業革命以降の時間感覚の変化によって時間は大事なものだとされ、理解に時間がかからない直接的でわかりやすい文章が好まれるようになりました。わかりやすい理解できるものが名文となったわけですね。

今の日本の本でいうと、わかりやすい文章を書いたビジネス書と学者言葉で書かれた学術書を対比すれば、当然ビジネス書が売れます。みなさんはわかりやすい文章を心がけるように言われていると思います。この流れは学術書でもある程度同じことです。


name="y9sYl">でもいまさっき上で考察したことから考えると、わかりやすい文章は考えさせられることがあまりなく、立ち止まることも少ないのではないでしょうか。本当の読解力もつくのかわかりません。

比喩をたくさん用いた昔のわかりづらい名文がつづられた書物っていうのは、本当に現代人からすれば読みづらいですよね。ところが深く考え、さらに深い知の交流には実は難しい言葉や概念が必要な部分があるのかもしれません。現代の学術書では比喩はあまり使わず、専門用語を使いますが、そこには学問的に深められた知の交流の歴史が含まれており、わかりやすい言葉だけでは決して語り得ぬことを語っている可能性はあります。

今の流行りとなっている「わかりやすい文章至上主義」という常識をあえて疑ってみた文章となります。時間はもちろん大事なものだと思いますが、でもだからといって即学術書はわかりづらいから無意味だ、というのは実はナンセンスかもしれません。

よくよく考えてみましょう。コンピュータの用語をほとんど知らない人がカタカナ語ばかりで何を言っているのかよくわからない、とよく言っていますよね。だからコンピュータのわかる人は、あえてカタカタ語とわからない人が呼ぶその専門用語をわかりやすく言い換えたりしようとして、なんとか説明します。でもですね、その専門用語をすべてわかりやすい言葉に変換して語ることは、実はすでにコンピュータの用語を分かっている人が話をする上では大変非効率なんですね。その専門用語を使って、問題の解決策を考えるからです。だから専門用語をわかりやすい言葉で常に説明してほしいというコンピュータをわからない人の願いが叶うことはないんです。


name="CcQDi">このコンピュータの用語を各学問の専門用語に置き換えれば、わかりづらい学問の専門用語が不要だという話がいかにナンセンスかわかると思います。もちろん、専門用語を興味ある人にわかってもらう努力は絶対に必要なものです。専門用語を駆使することで、深く考えることができるし、実際人間の進歩に有益な部分も多々あるのだと思います。だから、専門分野にはわかりづらい専門用語があるのは仕方なく、その専門用語を知ることがまず専門分野を知ることになるのです。だから時間がかかっても、ちゃんと専門用語を学ぶのはとても大事なことです。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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