人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

キルケゴールのソクラテス像Ⅱ

 
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3 イロニーとは何か
3-1 イロニーとは嘘と同じなのか
 基本的に、イロニーは真意と反対のことを言うことから成り立つ。あるいは、言葉の表面上の意味とは別の解釈を引き出すことで成立する。ソクラテスについても「ソクラテスの言ったことは何か別のことを意味していた。外観は一般に内面と調和的な統一にはなく、むしろそれと対立しているものである」とキルケゴールは言う。また同時に次にように言う。「その人の外観そのものに立ちどまってはいられない人種なのであった」と。
 キルケゴールのいうソクラテス的なイロニーとは、伝統的な修辞学にとっては何か未知なものとして差し出されている。
 そしてイロニーは、伝え方だけでなく意味内容の差異を表現し、伝達を可能にするレトリックなのである。
3-2 記号的なイロニーの位相
 イロニーは、解釈の行為のうちでそれがイロニーなのだと判別される。
 コードとコンテクストは、前傾と背景に移り変わりながら互いにコミュニケーションを支える。だが、この記号の位相だけでイロニーを考えることはできない。というのもイロニーとは、ここでコードに登録されている意味と反対のものを伝脱することを言うからである。
 キルケゴールの示そうとするソクラテス的なイロニーとは、レトリック論にとってさえ何か未知なるものとして差し出している。つまり、キルケゴールのイロニーはこれとは全く別に言い表されなくてはならない。
3-3 キルケゴールのソクラテス的なイロニー
 「ソクラテスの抽象的なものは、あるまったく無内容なき号である」とキルケゴールは言う。それは、「意味―無意味」といった次元をそれこそ無に帰す非意味の次元に彼の記号が位置するからである。
 「無知の知」も、単に「自分が無知だということを知っている」以上の意味を持ってくる。たとえば「徳」について自分が語るとすると、その言明で<何を>語っているか無知なのである。
 キルケゴールによれば、イロニーの営為は「否定的な結果を最も純粋な最も無雑な状態で与える」ことにある。ソクラテス的なイロニーは、目的を有するだけではなく手段をも巻き込んだイロニーとなる。ここまで述べてきたことによって、わたしたちが問わなければならないのは、実は最初の問い、イロニーとは何かから、イロニーの立場に立たざるを得ないわたしという主体はどのような者か、という問いに変化してしまっている。
 徹底的な滅却運動により、否定性による主体の無限的で絶対的な自由の領域が在る。それはまた同時に、主体としてのイデーを限界として、決してたどり着かない領域として示す否定性でもある。
 そこから、いかに善くあるべきかという道徳的な問題も考えられる。「ソクラテスの中心は定点ではなくて、どこにもあってどこにもない」のである。ロゴス、そしてそれによって語られる道徳性のたったひとつの中心は「どこにもあってどこにもない。」「彼のイロニーは彼がイデーに奉仕するために用いた道具ではなく、イロニーは彼の立場なのであって、それ以上のものを彼はもっているのではなかった。」
 彼は弟子を豊かにすることは決して出来なかった。ではなぜソクラテスは偉大な教師となり得たのか。それは、彼が自らの無をロゴスに託して、その無を青年たちに開いて見せ続けたからなのだ。そうしてイロニーの愛によって、青年たちに愛される者つまり誘惑者となり、彼らを新しい世界へと船出させたのだ。「彼は世界史的に見れば、思弁の船を浮かばせたという意義をもっている。それにしても彼は自分では乗船せず、ただ船出させるだけである。彼自身はまだ古い体制に属しているけれども新しい体制が彼とともに始まるのである。」
 ソクラテス的な意味での「イロニーとは、無限的かつ絶対的な否定性として、主体性の最も軽く最もかすかな微である」という。

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