人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

格言集2

 
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 衆のあるところ、そこにまた真理がある、真理にとっては衆を味方にもつことが必要だ、と考える人生観がある。しかしそれとは違った人生観によれば、衆のあるところはすべて虚偽なのだ。…個々人が会合して群集となり、その群集が投票したり、わめいたり、騒ぎたてたり、とにかくなんらかの方法で決定権を得さえすれば、その虚偽はたちまち成り立つことになるのだ。 キルケゴール
 つまり理性は自己自身を絶対的に否定してしまうことができないのだ。むしろいつも自己自身を土台にしていなければならぬがゆえに、その異質のものを理性が考える場合、実は自己自身の枠の中で考えているにすぎない。また理性は、自己人を絶対的に超越してしまうこともできないのだ。それうえ理性が超越者を考える場合、実は自己自身のうえにあるものとしてしか考えられないのである。 ―キルケゴール『哲学的断片』
 人間とは非真理であり、しかも自分自身の咎ゆえにそうなったのだ。 ―キルケゴール『哲学的断片』
 人間はどれほど深く沈んでもさらに深く沈むことができる。そしてこの「できる」ということが不安の対象なのである。このとき不安がうすらげばうすらぐほど、それは罪の結果が人間の「血肉のなかに」移って行ったこと、そして罪が個人の中に国籍を取得したことをますます意味するものである。 ―キルケゴール『不安の概念』
 ただ信仰においてのみ総合は永遠に、そして各瞬間に可能だからである。 ―キルケゴール『不安の概念』
 同情は悩めるものの益となるどころか、かえってその同情によって彼のエゴイズムをかばってやるようなものである。こういうことについて、われわれはさらに深い意味で考えるようなことをしないで、ただその同情によってなんとか気休めをしているのである。 ―キルケゴール『不安の概念』
 悪魔的なものは善にたいする不安である。無垢においては自由は自由として定立されてはいないで、それの可能性が個人においての不安であった・悪魔的においてはこの関係が逆である。自由は不自由として定立されている。自由の可能性はこの場合もまた不安である。……悪魔的なものは自身のなかに閉じこもろうとする不自由である。……悪魔的なものは閉じこもるものであり、また、その意に反してあらわになるものである。……すなわち不自由の根底に横たわっている自由は、外部にある自由と連絡をつけて反乱をおこし、ついに個人のほうから自分の意志に反して不安のなかで自分自身をさらけだすという仕方で不自由をさらけだす。 ―キルケゴール『不安の概念』
 笑いは人間の特質である。 ―フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル物語』

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