人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

トルストイ『人生論』 一読目

 
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 はじめて読んだ感想は、「難しい」。よって全体をまとめることなど出来ないで、トルストイが何度も繰り返し説いている語句などを少しばかりみつつ、以下に自分がわかる範囲で大意を取ったものである。細かい部分まで汲み尽くすとなると、何遍もの読書が必要だと思う。だから、今後読んでわかったことがあれば書こう(大意を取ったといいはすれど、実際は何一つわかっていないに等しいのだから)。
 解説にもある通り、『生命について』論じられたトルストイの論文。おそらく当時の(今も当てはまるが)学問、科学といったものが『生命(ジーズニ)』についての定義について論争を行っていたのに対して、真の(=人間的な)「生命」、「愛」あるいは「死」とはどういうことをトルストイが論じたのだろう。科学的な見解は、「生命」を動物的個我の「生存」の中でしか論じない。これに対して、トルストイはこう言う。真の「生命」とは、時間的、空間的なものに捉われず、永遠性を持つものであり、自己の動物的個我を理性の法則に従属させて生きることである、と。そうして生きる人間は「死」が存在しなくなり、真の幸福が獲得される。
 またトルストイはこうもいっている、真の「生命」を獲得するのに必要な条件とは、「死」と「苦しみ」である。「苦しみがなかったら、動物的な個我は自己の法則からの逸脱に対する指針を持たなかっただろうし、理性的な意識が苦しみを味わわなかったら、人間は真理を認識せず、自己の法則も知らなかっただろう。」
 「愛」は「真の生命の唯一の完全な活動である」。誰もが幸福になって欲しいと願い、そしてそのように自分が行動することである。「愛――それは・・・人間を離れたものの幸福に対する志向であり、それは動物的個我を否定したあとで人間のうちに残るのである」。幸福は、動物的個我の幸福を否定し、誰もを助けたいという気持ちから起こる活動によって得られるものであり、その感情こそ愛なのである。
 
 トルストイの小説も読んだことがなく、自分にとって初めて彼の思想に触れたが、とりあえず感じたのはトルストイは大変さまざまな宗教・思想を研究しているのだろうなあ、ということ。ニーチェやヴェーバーなんかもそういったことをしているけれど、トルストイの場合は特に生命・幸福についての教義を中心に研究してきたのだろうか。特にイエスの教えとカント・ルソーの考えの融合という風に直感的に感じた。それはともかく、今の日本においても、動物的「生存」を「生命」そのものとして理解する考え方は常識として捉えられているが、それを否定する人はどれだけいるだろうか。私自身、そのように捉えていたが、今となってはその確信は揺らいでいる。彼の生命の考えが正しいかどうか、そのことは置いておいても、トルストイが真の「生きるということ(ジーズニ)」についてもっと広範に知り、考える機会があればよいのではないかと思う。

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Comment

  1. 退会したユーザー より:

    トルストイ「人生論」は学生時代に読んでみましたが、読破できませんでした。私が哲学の価値に目覚めたのがごく最近なので、当時は(といっても1~2年前ですが)読みが浅く正しく解釈できなかったのが主な原因だと思います。
    「隣人愛が大事と言いたいんだろう。〈道徳的〉な思想なんか求めてない。トルストイは向いてない」
    と判断して読むのを止めたのは、いまからすれば短絡的なのかもしれません。
    一方で、いま再読しても同じ感想を持つ可能性も大いにあります。
    この日記を読んで、そんな本があったと思い出しました。久しぶりに本棚から取り出してみたいと思います。

  2. たかはしさとし より:

     私もトルストイの言うことが高尚すぎるように感じて、なんだか向いていないのではないかな、と思うことは読書中何度もありました。ただトルストイほどの人が真面目に生命とは何かを同じことを繰り返しながら説明しているのを見て、ただならぬものを感じて最後まで読みきったというのが正しいです、私の場合は。
     たしかに彼のいう生命はどこか形而上学的な部分があるのは事実だと思います。なんというか、カントがいう「物自体」と「現象」の対立(あるいはショーペンハウアーの「意志」と「表象」の対立)の影響を受けていると言えるかもしれませんし、あるいは真の生命とはプラトンのイデア的なものだと感じてしまう部分もあります。実存主義の立場から、それは形而上学であり、浮ついた話であると反論する人もいるでしょう。しかし、ここが重要だと思うのですが、トルストイにとって真の「生命」とは実存そのものだということです。彼が死を強く意識しているときに書かれた論考において、トルストイがさまざまな宗教や思想を研究して出された「生き方(=ジーズニ)」は見る価値があるのだと個人的には思っています。

  3. 退会したユーザー より:

    そうですね。トルストイほどの人が血によって書いたものですから、読む価値は十分にあると今では思います。(あくまで宗教的、哲学的に誠実に)血によて書かれた、という点で共感できれば、とにかくも最後まで付き合うことはできると思います。
    この日記を読んでよかったです!
    カントの感性論やショーペンハウアーの「世界はわが表象である」という命題と関連付けてトルストイを読むということは、今の僕では発想することすら出来ませんでした。
    ちなみに純粋理性批判も恥ずかしながら途中で止まってますのできっと理解は浅いです・・・

  4. たかはしさとし より:

     私も『純粋理性批判』は未読です。一緒に読む機会なんかあればよいですね。私は『反哲学史』の中で言われてるカント理解をしているだけなので、まだまだ浅学の身なのです。(あるいは、ショーペンハウアーを通してカント理解をしている、とも)
     直感的ですが、「物自体=意志=(真の)生命」対「現象=表象=生存」という対立があるように思えるのですよね。カントにあっては現象は果てしなく現実的なものでしたけど、ショーペンハウアーに至っては表象とは幻みたいなもので、真の意志を知らねばならないみたいなこと言ってたかと。トルストイはショーペンハウアーの厭世哲学を否定しつつも、そういった認識の図式とかが似通ってるんじゃないかな、と少し思ってみたんですよ。

  5. 退会したユーザー より:

     彼らは見えるものと見えないものを規定し、後者をより高いものとして重要視しなければ生きていけなかったのでしょう。彼らにとって現実は、与えられたままに受け入れるには、あまりに辛すぎる人生だったから。
     キルケゴールの「人間は霊と肉の綜合である」、そして二者を繋ぐのが「精神」であるという考察も、彼が誰よりも絶望していたから説得力があるんだと思います。
     彼らの認識の大まかな図式に、通じるところがあるのは、そういう訳なのではないか。また、僕がどこか救われると感じる理由もそこにあるんでしょうね。

  6. たかはしさとし より:

     絶望しているから、そのような認識の図式が出てくる、というのは思い尽きませんでした。現代を反映させた過去を人間が再発見するのと同様、現実世界を反映させた理想を彼岸に見るのかもしれませんね。

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