『死にいたる病』2 1-A-B(1-1-B)
B 絶望の可能性と現実性
絶望は、長所であり、短所でもある。絶望するということが、「人間が動物よりすぐれている長所」なのであり、絶望に注意するということが、「キリスト者が自然のまままの人間よりすぐれている長所」なのであり、絶望から癒されているということが、「キリスト者の至福」なのである。このように、絶望の可能性は限りない長所である。
だが、現に絶望しているということは、「破滅」なのである。通常とは逆に、絶望の場合、現にそうあるということ(現実態)は、そうありうるということ(可能態)に対して、「下降」という関係にある。絶望の現実性は、無限に底深い。
というのは、絶望の現実性は、一種の否定であって、無力な、絶滅せられた可能性であるからである。絶望の現実性は、可能性を失っていると言うことである。
「絶望していないということは、絶望してありうるという可能性が絶滅されたことを意味しなければならない。」
絶望はどこから来るのか。「総合が自己自身に関係するその関係からくる」のである。「人間をこのような関係たらしめた神が、人間をその手から手放すことによって」、絶望は起こる。つまり、人間は無限と有限、時間と永遠、自由と必然の統合である。その関係の不均衡が生じ、さらに自己自身への関係するということに分裂が起こったときに、絶望はやってくる。
「絶望者は、絶望している瞬間ごとに、絶望を自ら招き寄せている」という。「絶望するということが精神の規定であり、人間のうちにある永遠なものに関係しているから」である。人間はこの永遠なものから抜け出すことなど出来ないのだ。
人間は、自分の自己から抜け出すことができないのと同様、自己自身への関係から抜け出すことも出来ない。絶望の責任は、自己自身が背負わねばならないのである。
絶望は最大の可能性だ。人間の可能性、キリスト者としての可能性がそこにはある。しかし、この長所は、絶望の現実性において無限の下降へと転化する。
絶望していないと考える人間がいるとする。しかし、絶望していないこととは、絶望の可能性が絶滅されたことを意味する。そこでは可能性と現実性との不均衡が生じ、自己を喪失した状態であることから、これもやはり絶望なのである。なんだか絶望に関していうと、希望がなく嫌になってしまう。そんな絶望的な状況が絶望である。