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石川文康『カント入門』 第六章メモ

 
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 『純粋理性批判』によって自然必然の法則性が確立され、『実践理性批判』によって自由にもとづく法則性が樹立された。これらは互いに排除しあう異なる原理である。この二つの対立する原理をつなぐ第三項を導きだしたのが、第三批判と呼ばれる『判断力批判』である。『判断力批判』は新しい思考法の発見でもある。
●合目的性
 目的因…目的がすべてに先行する、第一原因であるという考え方。例えば家は設計図、建材、実際の作業が不可欠な契機であるが、「住む」という第一原因がないといまあげたどの契機も発動されない、と考える。
 カントはこの考え方に批判を加えつつ、合目的性という概念を掲示する。自然界に見られる有機体の仕組みは、たしかに目的という観点抜きには説明できないほど、生命の維持という目的に適っている。それを説明するのが、合目的性である。これは「目的に適っている」という意味を出ず、目的を究極原因として捉えることを意味しない。
 カントが自分の体系完成を託した原理が合目的性の原理である。
 心的能力  上級認識能力  原理   適用範囲
 認識能力   悟性     合法則性  自然
 感情の能力  判断力   合目的性  技(技術、芸術)
 行為能力   理性     究極目的  自由
 上のように対応する。感情の能力とは快・不快の能力であり、これに対応する上級認識能力が悟性と理性の中間にある、判断力に他ならない。
 同様に、原理も合法則性と究極目的を媒介する原理でなくてはならない。それは「自然の合目的性」である。合目的とは、ドイツ語では「便利」「好都合」を意味する。そして、この合目的性の概念によって、判断力は快・不快を司る能力となる。なぜなら、目的の実現や目的に適った現象には、大なり小なり快の感情が伴うからである。このことから、『判断力批判』は、快・不快の感情に直接関係する趣味判断を扱う部分(「美学的判断力の批判」)と、自然の合目的性そのものをテーマとする部分(「目的論的判断力の批判」)の二部構成をとる。
 判断力とは、悟性に使える判断力ではなくて、自律的判断力である。それをカントは「反省的判断力」と呼ぶ。判断力とは、特殊なものを普遍的なものの下に包摂する能力である。
 特殊なものがまず与えられて普遍的なものを求めるのが反省的判断力である。普遍的なものとは、「合目的性」にほかならない。
 「反省」とは、直接に対象に向かうのではなく、基本的に、与えられた印象をさまざまな認識能力に関係させつつ、対象に関する概念を得ようとする心的状態を意味する。それゆえ、反省的判断力のはたらきは、同じ対象に「~と見なす」という仕方で望み、「判定能力」とも呼ばれる。
●目的なき合目的性―美
 新たに得られた構想を展開するにあたり、カントは趣味判断の批判から開始する。なぜなら、判断力に対応する心的能力が快・不快の感情であり、この感情が直接問題となるのは、趣味の領域においてだから。
 美学的判断力の批判で問題になっているのは、自然美である。
 美は構想力の自由な戯れであるが、悟性との調和における戯れである。なにかが美と判定されるとき、そこには同時に調和の感覚がなければならない。
 ある対象が美と判定されたとき、そこには「快」の感情が生じている。美が感得されるときには、目的や目的設定する意志がはたらいていないのに、意に適うという「合目的性」が見られる。それゆえカントはこのような合目的性を「目的なき合目的性」と呼ぶ。
 趣味判断はア・プリオリであり普遍的である。「主観的・普遍妥当性」を持つ。この種の判断力において、はたらく認識能力、構想力と悟性は、万人において一様であり、そうでなければならない。人が「このバラは美しい」と判断するとき、彼は少なくともその意味があらゆる他者と共有できるという期待のもとに、その判断を下しているのである。
 このことからカントは、人間における「共通感覚」の存在を主張する。人間に共通な理解力のことである。カントの主張の眼目は、先入観から解放される唯一の方法として、自分自身を他者において、相互主観的に考えることを説くことである。相手の立場にたつということは、自我の狭さを打破するのであるから、必然的に、自我を拡大することにほかならない。そしてカントは健全な思考法のための三つの原則を掲げる。
 1 自分自身で考えること
 2 自分自身を他者の立場に置いて考えること
 3 つねに自分自身と一致して考えること
 1が悟性に対するもの、3が理性に対するもの、2が判断力に対するものである。
 カントにとって美と崇高は、いわば性格を異にする兄弟である。崇高は理性と調和した構想力の営みである。崇高の感情は間接的快、すなわち感動である。崇高には二種類存在する。
1)数学的崇高…判断力が構想力を認識能力として理性に関係させる場合の崇高
2)力学的崇高…判断力が構想力を欲求能力としての理性に関係させる場合
 すでに美学的判断力の分析を通じて、合目的性の原理が構想力から悟性へ、悟性から理性へと「思考法の移行」を可能にし、それが自然界と英知界を媒介する原理であることが示されている。 
●自然の合目的性
 自然界にはだれが意図したわけでもないのに、合目的な現象が存在する。生物がそうである。有機体は全体の理念があって、部分が全体のために、全体が部分のためにある合目的な統一体である。このような仕組みを体系と呼ぶ。これは技術と化した自然、「自然の妙技」と呼ばねばならない。自然の合目的性は「客観的合目的性」とも呼ばれる。
 ただし、自然の合目的性は単なる主観的原理、「統制的原理」である。われわれの認識をコントロールする原理であり、それは現実ではなく、現実に投影された理念にすぎないのである。このことから客観的合目的性といえど、主観的反省作用が、目的という概念を客観に持ち込んだ結果にすぎないのである。合目的性を客観的に認めても、そこに目的設定した意志が「ある」のではなく、「あたかもあるかのように見える」とするところに、反省的判断力の本領がある。仮象は判断の主観的根拠を客観的根拠と混同するところに生じたが、反省的判断力の原理である合目的性は、あくまでも判断力自身の主観的原理である。主観的なものを主観的なものとして断定することで、仮象に陥ることを避け、仮象自体を批判する。前二批判書と同様、「判断力批判」は一貫した仮象批判である。
 目的論的考察をすすめると、究極目的の概念に至る。
 人間は自己および他者を人格として、目的そのものとしてみなす存在者である。言い換えれば、人間を自由の主体とみなすということである。自由は、その背後にいかなる条件を前提としない絶対的自発性を意味していた。自由な主体としての人間、道徳的主体としての人間こそが世界の究極目的である。英知的存在者であるかぎりにおける人間が世界の究極目的である。

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