人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『死にいたる病』5 1-C(1-3)

 
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C この病[絶望]の諸形態
 「絶望の諸形態は、抽象的には、総合としての自己が成り立っている諸契機を反省することによって、見いだされる」。「自己は無限性と有限性から形成される。しかし、この総合はひとつの関係であり、しかもそれは、派生されたものではあるけれども、自己自身に関係する関係であって、この関係は自由なのである」。自由とは、自己自身に関係する関係を実現した状態、すなわち、本来の自己の実現であるので、「自己とは自由なのである。しかし、自由は可能性および必然性という規定における弁証法的なものである」。
 そしてまた、「絶望は、意識という規定のもとに考察されなければならない」という。「一般に意識すなわち、自己意識は、自己に関して決定的なものである。意識が増せばそれだけ自己が増し、意識が増せばそれだけ意志が増し、意志が増せばそれだけ自己が増す。意志を少しももたないような人間は、自己ではない。しかし、人間は、意志をもつことが多ければ多いほど、それだけまた多くの自己意識をもつのである」。
 ほとんど抜書きになってしまったが、ここでいいたいのはこういうことである。絶望は、意識の規定のもとに考察されねばならない。だが、自己意識をもっていない(=自己をもたない)人もいるので、その場合の絶望についても考えねばならない。そこでここでは、まず、意識の規定を抜きにして、「気分」として理解されるだけの絶望を取り上げる。つまり、ここでは、「無限性と有限性という規定のもとに見られる絶望」と、その無限性と有限性という規定のもと自己が自由であることから導かれる、「可能性と必然性という規定にもとに見られる絶望」という総合の諸契機のみが反省される2つの絶望の形態を考える。
 そして、次に意識の規定のもとに見られた絶望を考える。それは、まず自分が絶望であることを知らないでいる絶望であり、次いで、自分が絶望であることを自覚している絶望を取り上げる。そこでは絶望して自己自身であろうと欲する場合の絶望と、絶望して自己自身であろうと欲する絶望を取り上げる。このように、キルケゴールはすすめばすすむほど(自己)意識が増した段階によって絶望の諸形態を分析するのである。

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