『死にいたる病』4 1-B(1-2)
B この病[絶望]の普遍性
絶望していない人間など一人もいない、いるとすればそれは真のキリスト者だけである、とキルケゴールは言う。なぜなら絶望することができる動物が人間であるから。
自分は絶望していない、と思っている人がいるとしても、自分が絶望していることに気付いていないだけに余計に絶望していることになる。それゆえ、「絶望していないということ、絶望していることを意識していないということ、それこそが絶望の一つの形態にほかならない」のである。そして絶望を自覚している人間のほうが、自覚していない人間よりも弁証法的に治癒に近いという。
「絶望があらわれるやいなや、その人はそれまで絶望していたということが明らかになる」。そう、精神には直接的な健康など存在しないのだ。人間が精神として規定されていることを自覚していないこと、そのことが絶望なのである。
絶望は幸福の奥底を最も好むという。そしてすべての直接性は、実は不安であり、たいていが無に対する不安であるという。
無の反省、すなわち無限な反省に堪えるためには、大いなる信仰が必要である、とキルケゴールはいう。のちに、絶望の反対として信仰を規定する箇所があるが、ここでも絶望と信仰とが対抗的に捉えられている。
絶望は「無」であり、それを認識する主体すなわち自己は「有」である。絶望は、この無と有の弁証法の中にある。生きることは矛盾に満ち溢れている。「絶望の弁証法を理解しないものは、この矛盾に満ちた人間の実存を見失う」。
かくして人間には絶望が普遍的であることがわかった。次はその絶望の諸形態を、気分として捉えられるものと意識の規定のもと捉えられるものとにわけて見ていこうと言うのである。
人間は自分が絶望していると思っている人だけでなく、そう思ってない人も絶望している、とキルケゴールはいう。ここで言いたいことはそれだけ。真のキリスト者のみが、つまり信仰をもっている人のみが、絶望していないのである。精神の規定のもとに現れる絶望であるからこそ、絶望していることを自覚していること[本来的な絶望]は、絶望を自覚してないこと[非本来的な絶望]よりも、より進んだ状態なのだ。
Comment
この本を読む際に僕が気を付けていることは、キルケゴールは信仰ゆえ真に絶望していない「稀な人」として語っているわけではないということです。
絶望からはのがれられないんだ!という叫びであり、同時に彼自身が救いを求める具体的な手段として絶望を考察しているということに留意するのが正しいのではないでしょうか。
この次に連なる書として真のキリスト者とは、真の信仰者とは何かを述べた『キリスト教の修練』を上梓しているので、その点について触れておいたほうがいいと思いましたが、読み返してみると私が最後に書いてあるような書き方だと、真に絶望していない「稀な人」をこの書で言ってるように見えてしまいますね。
確かにそうですね。絶望していない人はいない、とはっきりと言ってますからね。この本を読む際には
>絶望からはのがれられないんだ!という叫びであり、同時に彼自身が救いを求める具体的な手段として絶望を考察しているということに留意
しておくのが良いと思いました。