『死にいたる病』11 1-C-A-b-β(1-3-A-b-β)
β 必然性の絶望は可能性を欠くことである
「人間の生活(人間的実存)が可能性を欠くにいたるとき、それは絶望しているのである。そして、可能性を欠く瞬間ごとに、絶望しているのである」。
「決定的なことは、神にとって一切が可能だということである。信じるとは、まさに神をえ得るために悟性を失うことを言うのである」。必然性の絶望をしている者は、神が欠けた状態であり、同時に自己を欠いている。
「信じる者は、人間的にいえば、自分の破滅を見、かつ悟る。しかし、彼は信じるのである。それゆえに彼は、破滅にいたらないのである」。
可能性を欠くということは、決定論者・宿命論者として絶望しているか、それとも俗物根性や卑俗さで絶望しているかどちらかである。「俗物根性は無精神性であり、決定論と宿命論は精神の絶望である。しかし、俗物根性もまた絶望である」。
自分の自己と神に気付くためには、空想が必要である。だが、「俗物は空想をもっていないし、またもとうともしない。むしろ空想をきらうのである。それゆえ、ここには救いというものがない」。
「神によって、自己を確実な破滅から救い出すことのできるための信仰の可能性が、俗物根性には欠けている」のである。そして俗物根性は、「無精神性の奴隷となり、あによりもいちばん憐れなものになっていることに気付かないのである」。
俗物根性は、精神を持っていないという点で、決定論者や宿命論者の絶望よりもさらに、低い絶望に位置している。だが世間はそれが良いことだという。自己喪失はまるで問題とされない。『現代の批判』で批判した通りの自己を失った人間の姿が、ここでいわれている俗物根性であって、彼らは分別と反省により生きる。しかしそこに自己はないのである。
可能性を欠いた絶望とは、未来がないゆえに、今に意味が見出せない絶望であるともいえるだろう。