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ニーチェのソクラテス像についてⅠ

 
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菅野孝彦 「ニーチェのソクラテス像―『悲劇の誕生』及び『人間的な、あまりに人間的なもの』において」より
一 はじめに
 ニーチェのソクラテス像の変化を追うことは、ニーチェ思想の変容・発展を映し出すことを意図している。
H・J・シュミット「ソクラテスは、ニーチェにとって『悲劇の誕生』から『偶像の黄昏』に至るまで、そのつど自らの思惟の根本的立場を具現化する」
 ニーチェのソクラテス像はいわゆる史的ソクラテスとは違い、私的ソクラテスである。
H・J・シュミット「ソクラテスは、基本的にニーチェの生き写しである」
二 『悲劇の誕生』におけるソクラテス像
 アポロ的なもの(=根源的意志が生に分化した現象)である絵画・彫刻等の造形芸術とディオニュソス的なもの(生の根源に潜む意志)である音楽があいまって悲劇を形成する。
 しかしエウリピデスが悲劇を創作し鑑賞する基盤として知性を求めたとき、悲劇は解体を始める。その知性を代表するのがソクラテス(=「理論的人間の原像や始祖」)であり、その影が近代世界まで覆う。この「理論的人間」について問うことは、ニーチェにとって「科学」を問うことにほかならない。ここでいう科学とは、実証を胸とした諸学の趨勢を意味している。
 ニーチェは、悲劇を死に至らしめた理論的人間(=ソクラテス)の思想をアポロ的傾向・論理的本性の一種の異常な発展とみなす。アポロ的とディオニュソス的との対概念における均衡が、アポロ的なものの肥大とともに崩れ、悲劇は解体するのである。理論的人間が「思惟は存在を認識するばかりでなく、修正することもできるというあの不動の信念」を持つとき、「世界の論理化」が始まる。ソクラテス像は、この世界の論理化過程の象徴である。
 そして、ニーチェはソクラテスを「世界史というものの一つの転回点と渦巻」と見なす。
 ニーチェは「論理ソクラテス主義(=世界の一切を論理的に把握することが可能であるという立場)」の巨大な影影が、生の領域へも向かうことを危惧する。ニーチェにとって重要ななのは、論理ソクラテス主義によって明らかにされる事物間の連関ではなく、事物の存在それ自体なのである。その事物の存在にこそ、「素朴な信頼感」を寄せるのであり、それは教えうるものではない、というのがニーチェの主張である。
 ニーチェは人生に対する二様のあり方を対比しつつ示す。理論的人間にとって、認識可能な領域こそが人生なのであり、それは知識によって封じ込められた人生である。対して「悲劇的認識」においては、人生は良きことであれ、悪しきことであれ、迫り来るすべてである。
 ニーチェは、自身が指摘する新しい悲劇的文化への移行に「論理的ソクラテス主義」の破綻を見出す。「論理の本質の中に隠されていた楽観主義は頓挫するに至る。」
 論理ソクラテス主義によって得られる知識は、現象界の「現実」を掲示するのみであり、人生の重みになんら答えるものではない。それゆえに「近代人は、ソクラテス的認識意欲の限界を予感し始める」である。
 悲劇的文化において、ニーチェが求める知とは、科学的知の不毛さを乗り越えた、自らの生=人生の真の意義をその体験において問いうる知である。

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