石川文康『カント入門』 第七章メモ

●道徳は不可避的に宗教にいたる
 「批判の時代」―宗教も批判の例外ではない
 そのため『単なる理性の限界内における宗教』(=『宗教論』)をあらわす。仮象を批判し、真理をつきとめる、三批判書と同じ態度がとられている。
 「道徳は不可避的に宗教にいたる」は、道徳が将来的に宗教に通じるという意味であって、今現在の道徳が宗教を必要としているという意味ではない。それゆえ道徳が道徳として自律しているという主張と、それが宗教へ通じるという主張はなんら衝突するものではない。
 しかし逆は不可能である。宗教は必ず道徳を通る必要があるのだ。言い換えると、道徳がない宗教は偽りの宗教であり、仮象宗教だというわけである。その意味で、カントの宗教論においても、仮象批判としての批判哲学の精神が貫かれている。
 幸福の追求は間接的な義務であり、幸福は願わしきものとして広義における「善」にほかならない。完全な善は徳と幸福の両方で構成されなければならない。このような徳と幸福の一致を「最高善」と呼ぶ。実践理性は依然としてとくが最高善の第一条件であり、幸福はあくまでもその第二条件にすぎないことを教える。
 道徳的に完全無欠な人間となるのはこの世では不可能である。しかし、理性が実現不可能な命令を下すことは自己矛盾である。理性の自己矛盾はすでに『純粋理性批判』において排除されている。とすると、その実現は、この世を越えて無限の前進においてのみ可能でなければならない。このことから、必然的に理性は道徳的主体としての人格、すなわち魂の不死を要請する。
 幸福とは、世界のために自分があるのではなく、自分のために世界があることである。しかしわれわれは世界の創造者でないので、そんなことは不可能である。それでも依然として理性はわれわれに最高善の促進を命ずる。ゆえに、理性が自己矛盾に陥らないためには、最高善は可能でなければならない。そのことから理性はみずから、世界の創造者にして、同時に徳と幸福の結合の根拠を含む存在者、すなわち神の存在を要請する。このように、最高善の概念を介して、道徳は必然的に宗教にいたる。
 このような信仰は、今までの信仰とは違う。カントはこれを「純粋実践理性信仰」と呼んだ。理性宗教という新しい宗教をみずから提唱し、それを基礎付けたといえる。
●根源悪
 『宗教論』において、カントは人間における悪を起点にすえる。
 人間には「善への素質」が宿っている。一方で「悪への性癖」が根付いている。「悪への性癖」とは、道徳法則を感知しながら、なおもそれにそむいて悪しき格律を選択する性癖を意味する。「悪への性癖」は、諸悪の根源にしてそれ自体悪である。これをカントは「根源悪」と呼んだ。
 「悪への性癖」は「英知的所行」とされ、自然的素質ではない。というのは、「悪への性癖」が悪しき格律を選択する意志に、すなわち自由にもとづいているからである。それは根絶不可能である。
 だが、「悪への性癖」は克服が可能である。「唯一不動の決意」による「思考法の革命」により、善への道へ方向転換することによって。
 この根源悪はキリスト教の原罪の批判でもある。
●理性宗教の具体相
 啓示宗教のひとつであるキリスト教の本質のみが、理性宗教の資格を備えているという。神の子の概念は、われわれの理性の内に求められなければならない。
 倫理的共同体は道徳的に最高の立法者でなければならない。このような存在者として表象されるのが神に他ならない。宗教は道徳法則を神の命令と見なすことである。神を立法者とする共同体を教会と呼ぶ。しかし、この教会は見えざる教会であり、内なる教会である。

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