人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

キルケゴールとの対峙3|絶望の哲学

 
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どうもこんばんは、たかはしさとしです。寒波がやってきて1週間ほどたちますか、今日はだいぶ過ごしやすい気温立った気がします。寒い日が続くと少し暖かい日がとてもありがたく、そしてうれしく感じます。そういう些細な日常に感謝できる心構えって案外大事かもしれませんね。
コロナ感染者数も爆増しているので、気をつけましょうね。

前回の記事

前回もキルケゴールシリーズでした。第二弾ということで、不安について考えました。不安は自由から生まれます。自由の無と真剣に取り組もうと思ったとき、無から有が飛躍して生まれるのです。つまり責任をとって選択をするとき、生産的な活動ができると言い換えることができるでしょう。以下がリンクです。

まだ読んでいない方は読んでみてくださいね。

絶望

絶望って聞くといやな感じがしますか?人生に絶望した人は暗そうですよね。絶望する人は自殺しそうな感じもするかもしれません。
でもでも、キルケゴールのいう絶望は、もっと広範囲な概念だと思ってください。

キルケゴールは有神論的実存主義と呼ばれることもある、宗教的実存主義者です。よってキルケゴールの思想にはキリスト教の神という存在は必ず出てくるので、本当にキルケゴールを読み込もうとすると神の存在は絶対に避けられません。

キルケゴールは主著『死に至る病』において、絶望とは次のようなことをさすといっております。この世に自己を存在させたのは創造者なる神です。その自己が神との関係を失ったとき、本来の自己を見失っている状態だと言えます。この本来の自己を見失った状態こそが絶望なのです。つまり近代的な自我は自分が神から自立した状態が目指されていたので、絶望におかれていることになります。

人間は自分自身であるために、神のうちに自己を基礎づけて、自己の根拠として神の前に立つときに、真の自己を回復することができる、とキルケゴールはいうのです。

今の日本人には神が創造主であり、自己の根拠が神だと言われてもぱっとしないでしょう。でもこの神についていえば、何か絶対的なものと置き換えてみて考えてもよいでしょう。たとえば仏であり、たとえば熱中する対象であり、たとえば推しのアイドルであったりして置き換えてもよいのです。

私が絶対視する推しのアイドルとの関係を失ったとき、本来の自己を見失い、絶望している状態である、と言えますよね。つまりそれまで絶対視してきた何かとの関係が本当はそうじゃないんだ、と気づいてしまったときに本来の自己を喪失して、絶望状態に入るのです。

その熱中するアイドルなんてどうでもいいや、アイドルがどう活動しようがしったこっちゃない、だって私とは無関係なのだから。私にはもっと現実的に付き合える女の子もいるし、仕事で成功を収めることで、楽しめるだろう。でもよくよく考えてみたら、人生を空費しながら推しのアイドルに熱中してたころのように、別の何かに熱中しようとしてるだけかもしれない。これって矛盾してるんじゃなかろうか?

というわけです。ところがあるとき、その人は自分の自己を形成させた推しのアイドルと関係を復活します。やっぱり推しアイドル萌え~。純粋の推しのアイドルと自己の関係を見直して、そこに熱中するとき、真の自己が現れて絶望から復活してるのです。

という風に神っていうのは自分にとっての何か絶対的なものだと言っても通じると思います。

情熱的に熱中できる何かをなくしたとき、人は自己を見失い絶望する。だからこそ、熱中できるものとの関係が再び戻ったとき、真の自己を見つけて絶望から癒されるのです。

そんな感じで読んでいくと絶望って実はすごいポジティブなものかもしれませんね。そんなこんなでぼくはキルケゴールを読むのが割と好きです。書いてあることはよくわからない表現も、何度も読むとこういうことか、とわかってくるのです。あなたもキルケゴールの著作を何か読んでみてくださいね

以上、キルケゴールの絶望を取り上げました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。なお、キルケゴールとの対峙シリーズはいったん終了します。ありがとうございます。

たかはしさとししるす


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