人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

「犬」という字をめぐっての考察

 
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「犬」という漢字と記号・象徴
Ⅰ中国の「犬」
●伝統中国における「犬」
 中国では、犬は大凡先史時代以来、最も人の近くにいた獣であったと考えられている。その役割は家畜として、即ち猟犬・番犬・愛玩犬・食用であった。「犬」という漢字が象形文字である甲骨文字から形作られた過程で、既に犬の役割としても付与されたと考えられる。さらに、クェンクェンと鳴く音として「ケン」になったといわれる。この段階で、犬という獣そのものの形以上の意味を含意する。「犬」には恣意性が介在して既に記号以上の意味を持つ象徴の役割が与えられているといっても良いだろう。また、犬は人が牛や馬のような他の家畜を代表する家畜それ自体の象徴としても使われる。後に触れることになるケモノ偏も「犬」が変形して作られたことからもこれが類推できる。このような家畜として人に使われる存在であった「犬」だが、これにはまた「犬」と同様の牛・馬のような家畜のような人以下のつまらぬ存在としての意味をも含意する。「犬馬之労」とは、元来自分より身分の高い人に対して、私はこのようなつまらぬ仕事をやっているという謙譲的表現であるが、それはつまり「犬馬之労」をするものは身分が低いことを指し、同時に「犬馬之労」は人に使われて犬や馬のような仕事を人がやる、ということを指す。特に肉体労働にはその感が強い。「犬」はつまらぬ存在の象徴だが、同様に「犬馬之労」はつまらぬ仕事を指す。それゆえにこの「犬馬之労」をするのは、身分の低い或いは立場の弱い人間なのである。
●現代中国における「犬」
 現代中国でも「犬馬之労」は嫌われる傾向がある。たとえば、個人食堂の例を見てみると、この食堂の経営者が雇われた者と共に同じ仕事をすることは、(どんなに食堂が混雑しても)極稀である。人に使われる仕事は「犬馬之労」なのであり、つまらぬ仕事なので、ゆえに仕事上での身分・立場の高い・強いものがする仕事ではないのである。経営者は札束を数えるか、せいぜい仕事の指示を出すくらいのことしかしない。日本の個人経営の食堂ならば、およそ経営者は人を雇うことをあまりしないだろうし、また人を雇っても(少なくとも混雑するとき等は)仕事を共にすることとは対照的である。経営者自らが仕事をすることで、経費を浮かせるという合理性よりも、(身分の高いものは肉体労働、即ち「犬馬之労」をしないという)面子を重視する。もちろん、中国の人を雇う経費が安いこともあるが、それを勘案しても中国では経営者は人を使う身分であれば、厨房に立つことは極めて少ない。
 また中国では少しでも家計に余裕が出ると、家政婦を雇う。家事もまた肉体労働で「犬馬之労」なのであり、人を使い家事をやらせる。日本では、家計に相当余裕が出てかつ仮に家政婦が安く雇えたとしても、そんなことはせずに貯金に回すだろう。現在、中国の都市部と日本の物価の差はかなり小さなものとなってきており、また養育費や結婚費も高騰しているが、それでもこの傾向はやまない。「犬馬之労」という言葉が中国の実情を反映している様子がわかる。
●犬の意味合い
 さらに伝統中国では、共に皇帝に使われる点では変わりないが、頭の使わない肉体労働の一種である武が持つ仕事は卑下された。これも「犬馬之労」の観念が反映されている例であるといえよう。文官が武官より地位が高いのも、この言葉と極めて連動する。伝統中国だけでなく今なお、民間で「犬馬之労」が反映されていることから伺えるとおり、役人により軍人は使われる立場なのであり、下に見られる。伝統中国から現代にまで至る中国のCivilian Controlは西洋のその意識と大きく異なる。
 「犬戎」という異民族への呼称も存在したが、この「犬」も犬というよりも人間(夏人、すなわち漢人)以下の存在であるということを示している侮蔑した呼び方である。
 上述した例は、中国の文化を反映しめすいい例であるといえよう。「犬」という一見超歴史的な不変の表意文字が、いかに歴史を内在し、反映したかがわかるのではないだろうか。また、「犬」という言葉の使い方を見ることで、人が家畜や獣に対してどのような位置づけをしてきたかを知ることもできる。「犬馬之労」の中の「犬」のレトリックが、人が獣に対して極めて卑下している一種の人間中心的思考を感じさせるとともに、今なお奴隷的な人間のイメージをもたらしている。まさに様々な象徴として表れているといえるのではないか。
 中国という国は広く、さらに歴史は長く、漢族だけでなくさまざまな異民族が流入してきた。その広さから地域ごとの性質の違いを地方志等を用いて「犬」を見るだけでも随分と抜け出せるだろうし、時代ごとに「犬」の観念・位置づけの違いを見ることでまた各時代の労働状態などさえ見いだせる可能性があり、「犬」に関する文化が抽出できるだろう。そして、それを比較することで様々な推移を知ることができよう。
 
Ⅱ日本の「犬」
 さらに、日本の「犬」について中国の「犬」と見比べながら考えてゆく。日本では、「いぬ」という音が指す動物を中国からはいってきた漢字を取り入れて表現する。
 日本では古代以来、肉食は避けられてきた。少し話は脱線する感があるが、獣の肉に対して一種の「穢れ」があったのだろうと類推される。肉には穢れが象徴されると考えられる。人と自然との間に位置する「獣」を食べない。しかし、説明がつきにくい部分もあるので次のようにも考えてみた。獣そのものが卑下対象である。魚・鳥は食べ、昆虫や両生類・爬虫類は食べない。おおよそ陸上で動くものは食べなかった。鳥は空に、魚は海にいるので食べていた。人間と同じテリトリーである陸に住む生き物は特別に食べなかった。これを穢れと表現できるかどうかわからないが陸上の動くものが特別な存在だったのはほぼ間違いないだろう。
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カエルはあまり聞かないが、日本では蛇がヤマタノオロチ等神話に出てくる他、民間信仰として蛇神を祭ったりするのも何かこの陸と陸以外(この場合は水)の象徴的存在としてあらわれるのと関係しているのかもしれない。[ヘビとウミヘビは、ヘビが爬虫類、ウミヘビはコブラ科から派生したと考えられる爬虫類とウナギ目の魚類がいる。昔からこの分類ができていたかどうかはわからないが、ただウミヘビのウナギ目のものは食べる習慣のある地域があるので、見分けをつけていたのかもしれない]さらに脱線するが、人間と陸以外の動物の間に天狗や人魚のようなものが象徴的に民話や神話に現れるのもこういった意識と何か連動するのかもしれない。
 ともかく、肉食ではない日本では「犬」は食用としての役割は当然抜けている。また中国にはない狛犬のようなイメージも与える。肉食ではなかった日本では犬や牛・馬を食べることはせず、そのために番犬的な役割が強くなり、狛犬のように現れたのかもしれない。日本では「犬馬之労」の概念はあまりない。馬はつまらぬもの、というよりも野菜やコメをとるのに必要な動物として重視され、仕事に関して言えば中国程の落差はないように思える。ただ、犬は番犬だがやはり直接的に農業に役に立つわけではなく、そこから日本では「犬」は益のないことや無駄なことを指すようになった。転じてつまらない・またいやしいの意を示す。やはり中国の「犬」とは微妙に思われるも差異がある。「犬死に」とは死ぬ価値のない死に方であり、また「犬侍」は役に立たぬサムライのことである。さらに、日本では「ソビエトの犬」のような使い方もする。敵のまわしもの、スパイを指すこの語は、おおよそ人に使われるという負のイメージに、さらに犬のようにへつらうといういやしいイメージが付加されてそのような使われ方になったのかもしれない。このような使い方は中国ではされないことから、間違いなく日本人が「犬」の意を変容させた。「犬」のもつ象徴性・イメージといったものを変えたともいえるだろう。そもそも漢字を自分の国の言葉にあてることはおよそ中国の近縁の国ならばどこでもやられていたのだろうが、やはり独自の文字体系に漢字を組み込んだのは日本人の柔軟さを示しているともいえるだろう。国字といったものがそういえるし、またイメージをうまくコントロールするといったことは、日本の精神性の1つのあらわれかもしれない。そもそもカタカナ・ひらがなも漢字から作られたものだが、漢字の役割を変えて組み込む。悪く言えばパクリだが、日本人は自らが何か発明するのが苦手だが、誰かが発明したものを応用化させる能力が高いのも、言語の文字体系にも如実に表れている気もする。日本の文化もやはり漢字に現れる。社会の考え方等と漢字はかなり相互的に関連しあっている。
 考えすぎかもしれないが、「犬死に」はおそらく音の要素も含む気がする。というのは「犬」の「いぬ」というのは「去ぬ」に通じ、これが死ぬことを意味することから、およそこの音が共通する文字がくっつけられた可能性も否定はできない。
 「犬」は日本の昔話の代表作の一つである「桃太郎」に登場する。「桃太郎」の考察は非常に面白いので少し深く考えてみる。
 まず桃太郎は、洗濯物をしていたおばあさんが川から流れてきた桃を拾い、開けてみると子供が中に入ってた、ということである。これは川から流れてきた、とは遠くのほうからやってきたことをさし、桃は女の象徴として現われているのではないか。そうすれば、遠くからやってきた女から生まれた子が桃太郎ということになる。古代では朝鮮半島人・あるい大陸人が渡来人として朝鮮半島を渡りやってきた。桃太郎はこの子孫を暗示するのではないか。
 ここでこの桃太郎の存在はいったん置いておいて、桃太郎とそのお供の動物たちが成敗する鬼について考える。この「鬼」という漢字は、中国では昔から死んだ人間を指す。およそあの世にいけなかったものがこの世に残ったもので、実体として行動しても墓に死体があるものが鬼である。幽霊的な実体のないものをさすこともある。これがこの世に残ったものでも、墓に死体がないものは、鬼とは見なされない。道教的世界観から死体が死んだ前の体から復活すればそれは仙人と通ずることがあるなどでこういった扱いになるのかもしれない。ともかく、その鬼のイメージは漢人である。
 日本では、どうであろうか。あるウェブサイト<出典:http://home.adin.hamamatsu-u.ac.jp/~take/ninth/oni.htm>
からの抜粋。「①鬼は<穏(おん)>の訛ったものとされ、隠れていて姿をあらわさない恐ろしいモノを意味し、そこに死霊を意味する中国の鬼(き)や仏の教えに従わない異教の神々を邪鬼とした仏教の思想などが複合して、日本的な鬼が形成されたのである。鬼は一般に反秩序的・反社会的な存在のイメージを表現したもので、その時代や地域の状況に応じて多様な形態が生みだされ、けっして固定化したものではなかった。しかし形態上の特徴には一定の傾向がある。まず、こわくて強そうな鳥や獣の身体の一部を借用し、背丈はじめ姿はできるだけ大きくたくましくするが、手足や胴体などの全体的な形態は人間とほぼ同様にするのである。②現代に残る鬼日本の鬼の本質は、凶悪な怪物という点にあるが、逆に人間に富をもたらす場合もある。その理由はいろいろと考えられるが、鬼とみなされた人々との交流、交換を通じて富を入手していたであろうということ、社会内部に生じた災厄などを鬼がその身に背負って社会の外に運び出してくれると考えていたこと、鬼は結局敗れ去る ものとされていたこと等々が、福神化した鬼の観念を支えているようである。鬼は、社会を活性化し、社会的存在としての人間の姿を浮き上がらせる人々に不可欠な存在なのであった。 鬼は、社会的秩序をはみ出たものとして反社会的・悪魔的な形象を与えられてきた。」このような理解が一般的である。このうち「反社会的な要因で形成された」という部分に着目する。鬼のイメージは昔の絵画に残るように「顔のパーツ(目や鼻)が大きく、彫りが深い」イメージである。対して、平安貴族というものは「顔のパーツが小さく、彫りがない」絵しかない。このことから、鬼というのはヤマト民族以外の異民族を指していたのではないか。ヤマト民族の祖先(弥生人)が大陸からやってきたとき、もといた原住民と戦うときにこのイメージがついたのではないか。原住民とはすなわち、縄文文化を形成した人々で、彼らは顔の彫りが深いといわれる。そこから、縄文人が弥生人と戦うときに鬼のイメージが穏という音に加わったのではないか。その後、鬼の概念がやってきたときに、鬼に与えられたのではないのか。鬼というイメージが先にあり、それを「鬼」という字に適応させた可能性はゼロではない。ここから概して原住民の象徴としての鬼がいたのではないか。ウチとソトの観点からも、国境に出現する敵対する原住民が恐ろしいものとして鬼として発現された。これは古代以前ならば、出雲の熊襲や薩摩の隼人等が挙げられる。
 中国の項で触れたが、犬は「異民族」の象徴として扱われる。人以下の存在としての野蛮人として河北では描かれる。古事記・日本書紀でも現れる雉(日本固有の鳥)は九州地方に分布する。猿は日本中のいたる所にいるが、昔は中国地方で猿神忌避があったらしい。これら動物がヤマト以外の異民族を象徴していたと仮定すれば、どう考えられるか。もし隼人(雉・鳥という関連)や熊襲(・・・?猿?)等と対応するとすれば、これらをひきつれて桃太郎が敵を打ちのめしに行ったのではないか。
 異民族制圧の例として有名なのが初代征夷大将軍坂上田村麻呂である。この坂上氏は中国の後漢の霊帝の流れを汲むという東漢氏に繋がる家系であり、渡来人として有名であった。そして、征伐した蝦夷は東北に住む民族で、原日本人との関係が深いといわれる。
「愛瀰詩烏 田比人嚢利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽田比毛勢儒」[1]
えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず
(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)
 日本書紀に読まれる詩である。最も、えみしが蝦夷なのかどうかは判明していないが、もしそうならば敵として手ごわいイメージがあったことには間違いない。
 かなり眉つば的な説ではあるが、坂上田村麻呂が桃太郎で、彼が蝦夷=鬼を退治しにいったことを指しているのではないか。仮にこれが正しいとしてさらに犬が異民族を指しているとするならば、犬はおよそ渡来人の子弟なのかもしれない。
 適当で無根拠な昔話の分析はともかく、犬がスパイとして扱われるのはこういったことと関係する可能性はあるのではないか。 日本では犬は食用ではないため、番犬以外の用途で使われることはあまりなかったと推測されるが、それでもやはり犬はいた。犬と人との間の関係は興味深い。
Ⅲその他考察
 現在では犬と猫はペットの代表として挙げられよう。しかしこの二者には決定的な違いがある。それは、犬は犬という象形文字であるのに対し、猫はケモノ偏(犬の字形変化)である。これはおよそ会意文字(ケモノと苗、つまりなよなよとして細いこと)と形声文字(ミャオ maoから苗という字が選び出された)のどちらかから形成されたとされる。どちらにせよ、犬は猫よりも昔から中国に存在したことがここからうかがえる。他にも虎・馬・牛・羊といったものは昔から中国人の身近にいたのはほぼ間違いない。
 犬という字はケモノ偏として挙げられるが、他に犬の形が残っている文字がある。たとえば、「伏」である。「伏」は人が犬のように地面に低く位置する様子から伏せていることを指すようになった。この伏せる様子から、さらに隠れることに転化した。また、犬のように服従する様子をもさす。人と犬との間のイメージの連鎖を生んでいる。
 およそ、中国と日本以外にも朝鮮半島の国々やベトナム等では漢字が使われていた時期がある。そのころの犬という字の語法を調べれば、また別の意味をおそらくとりえる。やはり、西洋語と同じく語源を調べれば様々なことがわかる。

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