人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

言語と貨幣の類似点(丸山圭三郎)

 
この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

丸山圭三郎著『文化=記号のブラックホール』Ⅱ言語と貨幣のフェティシズムより
 貨幣は二つの点で言語に非常に良く似た側面を持っている。
①材質とは無縁の、ある価値を持っている
 貨幣は額面表示が材質の重さや価値に比例しているわけではない。預金通貨の形になれば、ほとんど物質性がなくなってしまうが、その経済的な交換価値はかえって大きい。
 貨幣とは「あるモノを指し示すモノ」と考えられる。
 言語も「何かあるモノや何かある観念を指し示すモノだ」と考えられている。言語もまた貨幣と同様にそれ自身の材質とは関わりなく、もともと世の中に存在するモノを写しとるコピーとして、本物とは別の種類のモノであるかのように考えられている。
②「メタ的な性格」を持っている
 言語の「メタ的な性格」とは、似ても似つかない二つのモノの「実質的な際を、言葉の構造的な同一性によってくくること」である(例:私の「足」とテーブルの「足」という実質的にまったく異なるものでさえ一つの抽象的な集合「足」としてくくってしまう)。世の中にあるモノをグループ分けしていく、網の目によってくくっていく性格。
 貨幣の「メタ的な性格」とは、モノとモノとの差異を同一化する力を持っているということ(マルクスの例え:動物という概念はライオンやトラやニワトリをひとまとめにしたグループの名前であり、メタ的なグループの名前である。そして、市場経済において、貨幣が他のさまざまな商品に混じってやり取りされている様子は、ちょうど、ライオンやトラやニワトリに混じって「動物」が歩き回っているようなものである)。
 これら二つの特徴は、言語や貨幣に限らず、「記号」というものすべてに共通する性格。
 「記号とは、何かあるモノ(本物)を指し示すモノだ」という考え方は、物象化の錯視に陥っている。記号は、その記号が属する領域の「関係性の網目」が織りなす一つの結節点にすぎず、何も指し示していない。

この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© ニーチェマニア! , 2010 All Rights Reserved.