人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

スピノザ 自由意志の否定

 
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 「定理48 精神(魂)の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神は、このこと、あのことを意欲するように原因によって決定され、この原因も他の原因によって決定され、さらにその原因も他の原因によって決定される。そしてこのように無限に進む。
 定理49 精神のうちには、観念としての観念がふくむ以外のいかなる意志作用も、すなわち肯定、否定も存在しない。」
(『エティカ』 第ニ部「精神の本性および起源について」)
 スピノザは自由意志の存在を否定する。それは哲学史の常識である。では、なぜスピノザは自由意志を否定したのか。自由意志を否定することでどんな良いことがあったのか、そこについて少し考えたい。
 この理論の「有用性」は、第五部で明らかにされるだろうと、スピノザは言う。その前半では自由意志を否定することの実践的な意味が、その後半では「第三種の認識」の実践的な意味がそれぞれ取り扱われる。
 定理48でスピノザが否定したのは、あくまでの一般的な能力と言う意味での自由意志の存在であって、個別的な意志作用の存在は否定していない。定理49では、個別的な意志作用の存在としての自由意志が否定される。われわれは自分が考えていることを意志しているだけであって、まず何かを考え、しかる後にそれを外から肯定・否定しているわけではないのである。スピノザはここで意志作用を認識(観念)に吸収したのである。「意志と知性は同一である」。
 スピノザは従来の道徳説が、「われわれの意志(自由意志)が感情を支配している」という観点から作りあげられたのに真っ向から反対する。そしてスピノザは「知性」の能力に基づく倫理学を提案したのだった。
 すべての感情のなかで、最も治療が必要なのが「人間に対する感情」である。あいつのせいだと考えた途端、感情は思考をかき乱し始める。しかし、そうでなければ、感情はむしろ充実した生の不可欠の要因である。感情には自由意志によって対処するのではなく、知的に対処すべきである。
 感情を治療するには、人間というのは単独で何かの原因となりうるようなものでなく、他の原因によって決定されている存在だという点を認識することがまず必要である。つまり、「愛」や「憎しみ」も一つの自然現象としての感情であると理解することである。そうすることで、
「第五部定理3
 受動である感情は、われわれがそれについて明晰判明な観念を形成すると同時に、受動であることをやめる。」
 感情を自然現象として理解するということは、感情を一般法則によって理解するということを意味するのである。感情は、物体現象と同様、一定の法則にのっとって人間に生じている。
 身体の活動能力を増大するような変様が「喜び」をもたらし、逆に減少するような変様が「悲しみ」をもたらす。そして外部の物体の本性に含まれる感情の原因に向けられた喜びが「愛」であり、悲しみは「憎しみ」である。
 「感情の治療」とは、誰もがもっている「共通概念」を活用して感情を理解することだが、そのような認識をスピノザは「第二種の認識」と呼ぶ。対して、感情を外部の原因に結び付けて理解するのは「第一種の認識」と呼ばれる。
 
 ところで、「第二種の認識」にともなって生じる諸感情によって満たされた人間の魂(精神)には「強さ」 が帰せられる。定理11以下では、このような「強さ」が最高度に表現されるのは、人間が神を愛するときである、という文脈が現れる。神を愛するものはあの世で救われるのではなく、この世で感情に煩わされることなくおのれの生を肯定する。
 われわれが「共通概念」を連結させて思惟するとき、身体の変様は外部の原因から切り離され、一定法則のもとに理解されることができる。そうすると、われわれはもはや感情を誰かのせいにはしない。
 人間が互いを自由意志の主体と見なし、おのれの感情を他人のせいにしているあいだは、「共通概念」というせっかくの道具は有効に活用されることができないのである。そこで、自由意志という幻想を否定し、「第二種の認識」にいたることができるようにするのがスピノザの目的であったのだ。
(柴田健志『自由意志の否定は何を帰結するか : スピノザの 『エチカ』第五部における「感情の治療」』より)
 スピノザの思想、自由意志を否定しはしたが、そこから何が生じてくるかを考えたことがなかったので、それが考えられて良かったと思う。感情が一般法則に支配されているなんて、あまり考えないだろう。しかし、そうすることで、「他人のせい」にすることがなくなるというのはなんと素晴らしいことだろう。全部が全部受け入れられるわけではないが、ニーチェがスピノザを認めていたのもよくわかる気がした。

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Comment

  1. 退会したユーザー より:

    僕には哲学者などそんなに知らないので、知識を持ち合わせて共にその知識を深めることができなくて毎回申し訳ないです。わヴぇさんの日記を拝見して勉強させてもらいます(^_^;)

  2. たかはしさとし より:

    スピノザは、われわれは情念を意志によって操作できない、だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由であると考える。
    彼は「自由意志」を批判する。しかし、それは、自由や意志を否定することではない。実際は諸原因に規定されているのに”自由”だと思い込んでいる状態に対して、超越論的であろうとする意志(=知性)に、スピノザは自由を見出すのである。
    引用者注:この文の直前に、『わたしがいう「内面」の批判は、「内面」の否定ではまったくない』と、ある。われわれが、「内省」とか、「深く考える」というとき、実際は、考えているのではなく、慣習や、通念、過去の成功体験などに捉われているだけの場合が多い、それが問題なのだ。
    ―――柄谷行人「探求Ⅱ」(講談社版) p191
    <a href="http://yokato41.exblog.jp/11140034&quot; target="_blank" rel="nofollow">http://<wbr/>yokato4<wbr/>1.exblo<wbr/>g.jp/11<wbr/>140034</a> より
     柄谷行人はこういう風にとらえているらしいです。
     私もほぼ論文の要約をやっているだけなんですがね^^;勉強になると言ってくれると救われます。

  3. よ~ちゃん より:

    とても興味深い内容ですね<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/50.gif&quot; alt="わーい(嬉しい顔)" width="16" height="16" class="emoji" border="0">
    哲学からそれますけど仏教に「空」という言葉があって僕の理解では対象それ自体は肯定も否定もなく、感情は自分がそう思った時に決定される。考え方としては似てるように思います。
    共通概念とはいわゆる一般常識に近いのかなと僕は思ったのですがどうでしょうか?これによって左右されてしまう為僕が日頃から考えている事はこの共通概念を一端自分から外す事です。その後で対象をどう捉えるかが本当の自分の認識と言えるのではと。
    ニーチェは哲学を進めていくうちに善悪の彼岸で神を見ました。ニーチェの哲学に対する姿勢にこの日記の内容とのアナロジーを感じました。

  4. たかはしさとし より:

     たしかに言われてみれば「空」という言葉は考え方として似ているかもしれません。非常に興味深い指摘ありがとうございます。
     共通概念とは、一種の身体の変様の観念であり、受動的な感覚的認識のように部分的な認識ではなく、自他に共通なものを認識する能動的認識である、と訳注につけられています。「身体の変様」とは、「人間身体は外部の物体からつねに作用を受けてその状態を変化させている」状態のことです。身体に生じた変様を人間の精神(魂)は知覚しているようと考えられています。
    > 身体の活動能力を増大するような変様が「喜び」をもたらし、逆に減少するような変様が「悲しみ」をもたらす。そして外部の物体の本性に含まれる感情の原因に向けられた喜びが「愛」であり、悲しみは「憎しみ」である。
     このことは、「不十全」な感情のメカニズムなのです。
     ところがスピノザは、身体の変様には「すべてのものに共通」であるようなものも含まれているといいます。そういうものは「十全」にしか理解できない(第二部定理40)、とスピノザはいいます。ここで、スピノザは明らかに人間身体が外部からの刺激を受容し、変様する際の法則を考えているのです。「すべてのものに共通」であるものとは、人間身体の変様を生み出す法則のことであり、また感情を生み出す法則のことです。それについての概念は、身体の変様の中に含まれているはずだから、われわれは喜びや悲しみを感じるとき、同時に喜びや悲しみがいかにして生じたかを理解する手がかりをも知覚していることになる。それがスピノザのいう「共通概念」に他ならない、ということです。
     知性的に感情を生じさせる法則を知ろうとしたときについての概念とでも言えるんですかね。ここの解釈は研究者によってばらばらみたいです。
     スピノザはニーチェ同様、同情心も否定していますしね。そのプロセスは違うとはいえ、共感できるところは多かったのでしょう。↓に興味深いエッセーがあります。
    <a href="http://idea-moo.net/essay/ide/no03.html&quot; target="_blank" rel="nofollow">http://<wbr/>idea-mo<wbr/>o.net/e<wbr/>ssay/id<wbr/>e/no03.<wbr/>html</a&gt;

  5. よ~ちゃん より:

    > わヴぇさん
    丁寧な説明ありがとうございます<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/50.gif&quot; alt="わーい(嬉しい顔)" width="16" height="16" class="emoji" border="0">そういう事でしたか!理解できていませんでした。
    という事は喜びや悲しみといった感情が発生した時、同時に法則も発生してるという考えですね。ん~凄いです!その法則を考えてみた時自分がどういった事で喜び、悲しむのかが分析できますね。素晴らしい。勉強になりました<img src="https://img.mixi.net/img/emoji/66.gif&quot; alt="ぴかぴか(新しい)" width="16" height="16" class="emoji" border="0">

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