人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

自己とは何か1

 
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哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
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 自己とは何か。キルケゴールは言う「精神」であると。
 自己が精神であるなら、精神は絶えず変化するため、確実に同一な自己は存在しないことになる。心は周りの状況によって、変わってしまう。それは移ろいやすい繊細なものである。それゆえ、心の変化とともに瞬間瞬間に精神も変化しているのだ。
 キルケゴールにおける精神は、単なる心だけではなく、身体も含んでいる。また身体の観点から言っても、我々の身体は常に作り変えられているのだ。細胞は生き、そして死ぬ。そしてまた新たに生まれる。そういったことが繰り返されて、我々の身体は成り立っている。瞬間瞬間に我々は生まれ変わる。自己の同一性はどうやって肯定されようか。
 常に単一の自己であり続ける「私」という概念、これは幻想である。世界は矛盾に満ちている。その矛盾を受け入れるには、強い自己が必要である。強い自己とは、変化しない自己。そして、矛盾による自己同一の幻想が生み出された。
 何があっても変わらない自己、そんなものはないのだ。もしそんなものに固執するなら、周りに意見と食い違ったとき、自分の正しさのみを主張する人間になってしまうのではないか。正しいと思えることは、自分にとって譲れないこともある。それはそれで良いのかもしれない。だがしかし、間違っているということを受け入れること、これはいったんあった自己を否定して自己を新生することになる。
 我々の世界には、観点の違いによって、正しいと思われるものがある人には正しいことになったり、逆に正しくないと思われているものがある人には正しいとことになる、そんなことが多々ある。その多様性を受け入れることが出来る社会、その対立を許し、ますます大きな社会を作っていこうとする動き、ヘーゲル的量の弁証法はある観点において必要であると思う。個人としてはあくまでも個人的ではあるが、社会(=世界)としてはまさしく坩堝・サラダボールとしてあるのが必要だ。
 自己自身を絶えず変化させねばならない環境において、自己を喪失しないために、我々は努力しないといけない。それに必要なのが、哲学であり、質的弁証法である。このことはおいおい考えれれば。

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Comment

  1. よ~ちゃん より:

    精神は変化し続ける、体も含めて。不思議ですねぇ、なぜ細胞が入れかわっても足は足で手は手の細胞にきちんとなっているのか…何かがコントロールしてるのでしょうね。
    そんな精神とは別に私が存在するという事だけは唯一変化しないのではないでしょうか。

  2. たかはしさとし より:

    人体の不思議ですよね。すべての生物はなんと精緻に作られていることか!
    たしかに、「(考える主体である)私が存在する」という点は、変化しないですね。これだけはなくそうとしてもなくせるものではないですもんね。すっかり抜け落ちていました。

  3. 退会したユーザー より:

    ヘーゲルの同一性って概念はよく分からないですね。
    ヘーゲル研究者にヘーゲルは排中律を認めないのかと聞いても、
    曖昧な答えしか返ってきませんでした。
    ヴィトゲンシュタインも全く同一なものについてそれらをイコールで結ぶのは無意味だと言ってますしね。

  4. たかはしさとし より:

     確かにヘーゲルは排中律を認めているとは言うものの、実質的に認めているかどうかは怪しいところですよね。ヘーゲルの難解さはとても私の頭では扱えません。
     世界を動かすものは矛盾である という命題をここでは意識しただけにすぎないのですが。突き詰めて考えるとヘーゲルの考え自体はますますわからなくなってしまいます。

  5. 退会したユーザー より:

    ヘーゲルの文章はぶっとんでるとこありますよね。
    ヘーゲルを批判してるドゥルーズなんかも『差異と反復』、
    ちんぷんかんぷんでした。
    やっぱり科学哲学が好きだな。
    わヴぇさんは特にどの哲学者がお好きですか?
    日記から話題がそれちゃって恐縮ですが。

  6. たかはしさとし より:

    好きな哲学者は、ソクラテス・ニーチェ・キルケゴール・ウィトゲンシュタインですね。
    ウィトゲンシュタインは実存的に解釈しています。
    実存哲学でもあまり好きではない哲学者がハイデガーです。避けて通れない人物だとは思います。けれどやっぱり権力と迎合してつきすすんだっていうのが、つまり、自身の哲学の中に、ナチズムを許容するものがあるというのが・・・、駄目ですね。そうしてなかなか存在と時間に手が出ないのでした。

  7. 退会したユーザー より:

    ハイデガーは俺も好きじゃないです。
    ナチ関連はともかく、Sein und Zeitでしたっけ。ゼミで読んだけど退屈すぎる。世界-内-存在という言葉にしろ技術についての話にしろ「だから何?」という言葉がゼミの最中に何度も喉のあたりまで出かかって苦労しました。
    すごく気になるのですが、ヴィトゲンシュタインの実存的解釈ってどんなものですか?

  8. たかはしさとし より:

     自分の言葉でうまく伝えられないので引用で。すいません。
    『ウィトゲンシュタインは「草稿」から「論考」に至る過程において、論理を主題としながら、現実に生きる私=ウィトゲンシュタイン本人の存在意義を徹底的に追求したが、それを明らかにすることに失敗する。そこで、彼は、現実に生き責任を負う私=倫理的な主体を世界から追放する。その後、「哲学探究」として纏められる哲学的思索の中で、言語ゲームという梃子を使って「私」=「主体」を徹底的に世界から排除する。だが、最晩年の思索において、ウィトゲンシュタインは、言語ゲームの基底に存在する現実に生きる私を再発見する。死の直前、ウィトゲンシュタインは若き日からの哲学的探究の目標であった私の意義を遂に発見した。』
    <a href="http://idea-moo.net/syohyo/ono100401.html&quot; target="_blank" rel="nofollow">http://<wbr/>idea-mo<wbr/>o.net/s<wbr/>yohyo/o<wbr/>no10040<wbr/>1.html</a> より
     おおよそはこういうことです。(形而上学的)主体を解体するように読むのが主だと思いますが、何より「私」の探究にこそ力を注いでいたのではないかと勝手に考えるわけです。

  9. 退会したユーザー より:

    うーん、「(形而上学的)主体を解体するように」というのは、例えば「私は世界の限界である」といった論理哲学論考の記述などのことですよね?
    こういう話だったら理解できる気がするけど、「「私」の探究」というのは正直理解が及びません。

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