人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

キルケゴールのソクラテス像Ⅰ

2021/06/04
 
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キルケゴール「イロニーの概念」におけるソクラテス像 : 教師としてのイロニカー,イロニカーとしての教師 山内 清郎 より
1 教師の相貌
何かを語るようにという要求を、教師は常につきつけられているのか?
「わたしたちの時代」は語り得るより多くのことを要求する、とキルケゴールは言った。「多角なくても声高い熱情を、思弁ではなくても結論を、真実ではなくても説得を、誠実さではなくても誠実さの請け合いを」要求するという。キルケゴールのいう「わたしたちの時代」は既に過ぎ去ったものではなく、現代にもあてはまる。
キルケゴールの想定する教師としてのソクラテスを見ることによって、教師の相貌の選択肢として意義を見出せるであろう。
2 キルケゴール『イロニーの概念』より
2-1 キルケゴールの推理眼
ソクラテスとはイロニーの概念である。概念がソクラテスをめぐるさまざまな状況の中で現象として現れながら、イロニーとしての同一性を保っているからである。
キルケゴールは言う。すべてのイロニーに通じる規定として「現象は本質ではなく本質の反対である」と。この規定がある人に適用されると、それはその人の外面と内面との不一致を意味する。この意味で、イロニーはいわゆる概念となじまない。このイロニーの概念という新しい概念が、ソクラテスの歴史を解釈するという方法によって解明される。
ソクラテスの歴史は、前339年に毒杯を仰ぎ刑死した事実以外に確実なことはわかっていない。クセノフォン、プラトン、アリストパネスの三人のソクラテス文章が残されるのみである。キルケゴールはまず、ソクラテスの立場はイロニーである、と解釈し、この解釈を可能にするものとして、それぞれのソクラテス文章を取り上げる。
ソクラテスの描かれ方は三者三様にそれぞれ異なったものであるが、キルケゴールはそこに描かれなかったソクラテスをその可能性の中心において見ていこうとする。「ソクラテスが非常に大きな価値をおいたものすなわち沈黙、これこそが世界史との関連におけるソクラテスの全生命である。」同時代に生きようとも理解され得ない謎、ソクラテスの内面を「沈黙」として反響させている。
2-2 三者三様のソクラテス文章
クセノフォンの描くソクラテスには一つの意図があった。それは「ソクラテスに死罪を宣告したのはアテナイの人々の不正であった」のを示すことである。クセノフォンは結局「ソクラテスをまるでばかばかしいものに還元」したのである。そこにはソクラテスのイロニーが登場せず、ただ詭弁があるだけである。
次にプラトンのソクラテスを取り上げられる。だが、プラトンのソクラテスが真相に近いというのではない。
「ソクラテスはプラトンの方法とどのような関係にあるのだろうか。」キルケゴールによれば、対話篇という「方法」とは、多様な経験の中でその多様性を「絶えず抽象的となっていく縮約に還元することで単純化」する高度な技術を意味する。ソクラテス的な「語り合う技法」は、ソフィスト的な技法である「語る」ことと対比され、その差異は「語り合う」ことが「問いと答え」の形式であると言い換えられると、一層明瞭に表現される。
対象を中間に置いての問いの関係では、「問う者」と「答える者」との交互の足取りによって思想が進んでいく。ここで「問うこと」とは「真にソクラテス的に吸いつくす質問」であり、その道程がたどり着くのは「結果なし」という全くの無、すなわち「否定性」である。この否定性の中に、「ソクラテスが核に到達するために皮を削るのではなく、核をえぐり抜いていく有り様」が認められる。
だが、プラトンはこの「否定性」に神話的な記述を付け加える。これは決してソクラテス的なものではない。プラトンはソクラテスの「否定性」に自らの豊かな「肯定性」を付け加えたのでる。
二人のソクラテス文章はキルケゴールによると次のようにまとめられる。「クセノフォンは小売商人のように彼のソクラテスを値切ったのであり、プラトンは芸術家のように彼のソクラテスを超自然的な大きさに創造した」と。
そして、キルケゴールは最後にアリストパネスについて述べている。アリストパネスのソクラテス文章は『雲』と題された喜劇である。キルケゴールは、この喜劇がソクラテスを単に描写することでは最も真実に近いと考える。というのは、この劇の最初の判定者はアテナイの人々であって、彼らがなるほど似ていると納得しない限り喜劇にさえならないのだから。
アリストパネスはソクラテスの「否定性」に何も付け加えない。「雲」には肯定的な本体や正体が認められない。
2-3 キルケゴールの顧みた教師としてのソクラテス
ソクラテスの立場をイロニーとして解釈するのを現実にするのは歴史的事実、つまり国家の与えた解釈、状況証拠だとされる。その一つが、ソクラテスの内なる声ダイモン(精霊)であり、もう一つは、有罪判決の内容とソクラテスがそれを受け入れたことである。ダイモンの働きは、ただ警告を発し否定するだけである。雄弁な神々やギリシア的な意味での国家の法が人々の言動や行為と一致しているアテナイでは、そうしたイロニーとしての立場からソクラテスは、有罪を選ばざるを得なかった。結局、彼は「イロニーを使用しただけでなく、自らイロニーの生贄になるまでにイロニーに身を捧げた」のだ。
ソクラテスがイロニカーであるというのが既に証明された事実だという立場から今一度歴史を振り返れば、このソクラテス解釈は必然になる、とキルケゴールは説明する。その一つは、当時のアテナイに溢れたソフィストの主観性の立場からイロニーが生じたということ、遥かな時を隔ててロマン主義の時代に再びイロニーが原理として蘇ったことにある。また一つには、ソクラテスの後に多様な学派が生じたことから論証されるのだ。キルケゴールは、ソクラテスの立場はむしろ否定性であり、何も豊かさを残さなかったのでこれ程まで多様な学派を残したのだ、という。
同時代の弟子にとってさえ、「どんなに近くにいる者であろうとも、結局は絶対的な距離をへだてていることになる」と言われる。こうした事情の下で、いかにしてソクラテスは教師であるのだろうか。
弟子たちに対するソクラテスの関係に真剣さはない。ソクラテスは何を教えたのか。何も教えなかった。教えるべきものなど何ももっていなかった。ソクラテス自身は無であり「否定性」であった。ソクラテスは弟子を豊かにすることなどなかったし、より的確に言うなら断じて豊かにはできなかったのだ。
しかし、ソクラテスは「否定性」であるがゆえに愛される人となる。ここでのソクラテスの愛の関係、愛の本質について言うならば、それもやはりイロニーの愛であり、しかも「イロニーは愛における否定的なもの」なのだ。
アルキビアデスは自らソクラテスについて、彼は「愛する人である代わりに愛される人となった」と言う。キルケゴールによると、この言葉が意味するのは「彼が青年たちを自分のほうへ引き寄せたが、さて青年たちが自ら存在することをやめて、ただ一筋に彼から愛される状態であることだけを欲したであろうとき、既に彼は去っており青年たちは失恋の深い痛みを感じ、ソクラテスが自分を愛していたのではなく、自分がソクラテスを愛していたと感じた」ということなのだ。「弟子たちに対する彼の関係は確かに覚醒的ではあったが、肯定的な意味で決して人格的ではなかった。だが彼を妨げてそうさせなかったものが、これまた彼のイロニーだった」のだ。

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