人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『死にいたる病』序

 
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 底本は桝田啓三郎訳『死にいたる病』(世界の名著40)を用いる。ただし、斎藤信治訳『死に至る病』(岩波文庫)および、工藤綏夫著『キルケゴール』(センチュリーブックス 人と思想 19清水書院)も参照にする。
 まず、アンチ=クリマクス(Anti=Climacus)という仮名について少し触れておかねばならないだろう。キルケゴールは、『死にいたる病』と『キリスト教の修練』でこの仮名を用いている。『哲学的断片』と『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の著書として使用された仮名、ヨハンネス=クリマクスに対比されて、アンチ=クリマクスが使用される。両者は、「いかにしてキリスト者となるか」を共通のテーマとするものであり、ヨハンネスが哲学的理論において探究するのに対し、アンチは信仰の行為をもって実際に生きるものである。
 クリマクスの語源であるギリシャ語klimaxは、もともと「梯子」という意味であり、ラテン語Climaxは「絶頂」「最高潮」を意味する。アンチ=クリマクスは、すでに最高の真理に登りつめてそこにとどまり、そこから下を見下ろして人間の絶望した姿を描き、その悔い改めを迫る立場に身をおいている。そこで語られるのは、信仰する者の、キリスト者としての確信の言葉である。
 キルケゴール自身は、ヨハンネス=クリマクスよりは高く、アンチ=クリマクスよりは低い位置にいる、と日記の中で述べているという。
 キルケゴールは、本書は多くの人にとって「教化的でありうるためにはあまりに厳密にすぎ、また、厳密に学問的でありうるためにはあまりに教化的にすぎる」と思われるだろう、と言う。しかし、キルケゴールの立場からすると、前半の意見は間違いであり、本書の論述はどれほど厳密であろうと、「教化的」であるという。
 「教化」とは、キルケゴールの重要な用語である。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」(ルカ6:47-48)この句にあるように、「不動の信仰心をおこさせる」という意味で用いられる(ローマ8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」も参照)。「教化」は、あくまでも個々の人間に主体的に働きかけ、そして単独者の実存を神との関係において目覚めさせ、深化させることを目的とするものである。
 その重要な教化的な書物として本書を挙げているのであるが、キリスト教的にいえば、「すべてがすべて、教化に役立つものでなくてはならない」のであって、そうでない学問のありかたは非キリスト教的であるとキルケゴールは言う。これは、「哲学は教化的であってはならない」というヘーゲルの意見と真っ向から反対するものである。
 「すべてキリスト教的な認識は、…気づかわれたもの(配慮)でなければならない。そしてこの気づかい(配慮)こそ、まさに教化的である」とキルケゴールは主張する。
 絶望は、薬としてではなく、病として本書全編では理解されている。
 救済は、死んだもののように生きること、すなわち「神のない罪の生活をまず殺し、その死を乗り越えて、神とともにある新しい生活を生きること」のうちに成立するという。
 序論では、ヘーゲル的学問のあり方、神を念頭におかず客観的真理を求めるということが、キルケゴールによって批判されている。「単独者」として生きることが、キリスト教ヒロイズムである。また、心理学的に正しいことも、キルケゴールは確信している。キリスト教的であるとは、主体的真理に語りかけ、それを深化させることにあるとキルケゴールはここで言っているのだと思う。そして「病」としての絶望を分析することによって、人間の生き方も見えてくるのである。「自己とは何か、自己を取り戻し、自己を形作るにはどうすれば良いか」考えるのに最適な書である。

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