人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

長谷川博子「森と泉の妖精メリュジーヌ」

 
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今回のお話は「メリュジーヌの物語」から。要約を載せると長くなるので以下で確認してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/メリュジーヌ
 一口に中世といっても、その世界をひとしなみに論ずることなどできない。中世から近代に移るに当たって、様々な領域は変化したが、その「中でも重要なのは、呪術や異界、他社に対する認識の変化」ではないか、と筆者は言う。
 中世後期、ヨーロッパ人は他者と出会い、その他者に対する関心もひろまり、他者を言葉によって説明し、理解しようとする、欲望が生まれた。他者認識は同時に自己認識を生み出す。メリュジーヌの物語から読み取ることができる中世後期の異界・女・他者のイメージについて分析する。
 「正常」なるものの規範は騎士の世界にある。そしてメリュジーヌの世界は異常で、その世界を正常に戻すためには、メリュジーヌによって化せられた禁止を侵犯することによってはじめて可能になる、と物語は語るようかである。
 メリュジーヌは蛇女という表象が与えられたが、それは女の罪深さを主張するキリスト教世界の表象に基づいて創造されている。女=蛇=邪悪というイメージが前提にあって、異常な世界、超自然的な世界の出来事が、それと重ねあわされて描かれている。
 とはいえ、魔女裁判の時代とは違って、物語の著者と読者たちの世界には、依然として超自然的世界や「向こう側」に対する憧れ、畏れ、敬いの心があって、それらが寛容な態度で許容されていた。
 メリュジーヌは人間に必要な恵みをもたらすこともあるが、ときに制御しがたい恐るべき力をもち、人間を破滅に導く「こわい」側面をも内包している。それはあたかも人間が大自然に対する関係のようなものである。
 そこにあるのは、往復可能な水平的な宇宙であるとともに、永遠に繰り返される、終わりのない円環的な時間である。大自然に対する畏敬の念は、同時に女への恐れと尊敬を生み、人々の意識の中に潜在していた。
 また、メリュジーヌにとっての死は「人間化」され「懐柔」されてたものであった。
 物語は最初から、不吉なトーンをかもし出している。たとえば、物語は、騎士が主人をあやめてしまうところから始まり、それが「残酷な運命の過ち」に支配された悲劇の物語であることを暗示している。さらに決定的な形で物語の異常さを喚起させるのは、メリュジーヌが生む息子たちの姿形である。息子たちは、みな異型の身体をもち、尋常ではなかった。
 こうした異型のイメージは、この時代の異界への想像力の産物であり、これらはすべてメリュジーヌの異常さを盛り上げ、悪魔的性格を際立たせる↑で、大きな役割をはたしている。超自然的存在、異界の存在のもたらす関係に幸福などありえない、あったとしてもそれは一時的なものにすぎないのだ、というわけである。
 ここで物語りは、異界や「死」「女」への嫌悪、ネガティヴなイメージを描き立てている。
 騎士が「こちら側」から小さな穴を届いて「見えたもの」を重視しているのは興味深い。見える前にあった騎士がメリュジーヌを愛した事実も消えるわけでもないのに、自分が「見たもの」をすべてと神事、「言葉によって理解してしまうこと」によってすべてを失うのである。これは、「目に見えないもの」あるいは「闇」があることを受け入れ、なおかつそれを支配したり、位置づけたりせずに、抱え続けていくこと、そうした異質な他者への構えを放棄してしまうことを意味し、すべてを分かろうとする、分かるはずだと言う認識論的な態度への転換を示している。目に見えるものや啓蒙の光だけを善とし、闇を遮断していくこと、それは近代人の思考の仕方ととても似ている、と筆者は指摘する。

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Comment

  1. 退会したユーザー より:

    はじめまして 
    この最後の締め方だと、排除しなくても大丈夫な強い自分を誇示しているように感じてしまいましたが、どうでしょう。

  2. たかはしさとし より:

    はじめまして コメントありがとうございます
    目に見えるものや啓蒙の光を善とし、闇・わからないものを排除する考え方同様、中世のメリュジーヌ物語でも目に見えるものや言葉で理解できるものに頼りがちになり、闇の部分をやはり排除してしまっているのをいいたかったのですが、わかりづらかったですかね。すいません。

  3. 退会したユーザー より:

    こんちは
    読んでないので、内容について語り合うことは出来ませんが、いい書評ですね。
    考えてみれば、私たちは就寝する際、意識的にライトを消すことで闇を作り出しています。それまでは、深夜であろうと、大抵明かりに包まれている。これは闇を支配しているといえるかもしれません。つまり、近代人にとって闇は、いやおうなしに襲ってくる、どうしようもないものではない。そんなものに畏れを抱く必要はないということなのかもしれませんね。卑近な例を出しましたが、こんなことも存外影響しているのではないでしょうか。

  4. たかはしさとし より:

     いつもコメントありがとうございます
    >考えてみれば、私たちは就寝する際、意識的にライトを消すことで闇を作り出しています。
     
     そのような考えには至りませんでした。言われてみれば、そうですね。分かりやすい例をありがとうございます。現代人において、その例は非常に興味深いですね。我々は闇をコントロールする力まで科学によって作り出してしまったとも言えるのかもしれません。そしてこの前の日記の話へと続く・・・のか^^;

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