コルサール事件
キルケゴールは有名人こきおろしを得意とする新聞コルサールと対決を挑んだ。
そしてコルサールによるキルケゴールこきおろしが始まった。「二ヶ月ほどの間、ほとんど毎号のように、キルケゴールのせむしや、やせこけた足や、だぶだぶのズボンをだらしなくぶらさげたキルケゴールを嘲笑する漫画と、キルケゴールをののしる記事が連載された。」
そして、キルケゴールは街中を歩いていたら『あれか―これか』と子供たちから馬鹿にされるほどであった。公衆の悪意をここで思い知ったのだ。
キルケゴールは、良識ある人々や教会などからの支援を期待していた。だが、何の反応もなく、放置された。キルケゴールの天才的才能をひそかに憎む大学教授たちは、コルサールに味方した。「日ごろコルサールの暴虐をおこっていた人々も、かれの味方ではなかった」
そしてキルケゴールは、あるいはキルケゴールの「単独者」(神の前にたった一人でたつ人)は、「美的、感性的、思弁的なるものとの対決から転じて、大衆社会に直面して立つ」こととなった。
Comment
どこへ行っても大衆は、不合理になりがちな多数派の味方なのか・・・
「衆のあるところ、そこにまた真理がある、真理にとっては衆を味方にもつことが必要だ、と考える人生観がある。しかしそれとは違った人生観によれば、衆のあるところはすべて虚偽なのだ。…個々人が会合して群集となり、その群集が投票したり、わめいたり、騒ぎたてたり、とにかくなんらかの方法で決定権を得さえすれば、その虚偽はたちまち成り立つことになるのだ。」とキルケゴールは日記に書いてあります。『現代の批判』でキルケゴールが批判したのも大衆と新聞でした。「衆のあるところはすべて虚偽」というのは、なかなか言えることではありません。すべてがすべてそうだと言い切れは出来ないと思いますが、そういったこともありうるのだと注意しなければいけないと思います。
こんにちは
多数決の原則を採る民主主義、大量生産販売による利潤を目指す資本主義
「数が多い」ほうが「強い」「正しい」「優れている」とみなす傾向が顕著ですね
そして、それに何の疑問も持たない大人が多いのが悲しいです
こんにちは
そうですね。少数派の意見を尊重しなければいけないとか、言葉ではそういいつつも、全くその言葉どおりにならない社会が今の社会だと思います。多数派が力を持ち、その「考え抜かれていない」事実を少数派に押し付ける傾向、これは「数の暴力」とも言えるでしょう。仰られたとおり、その暴力がもっともまかり通るのが、政治の世界であり、経済の世界です。
「数の暴力」は事実様々な紛争・戦争の種をまき続けてきました。そして今もその原理がまかり通る世界だという事実があります。